第785話 『掃討戦』

 天正二十一年三月十四日(1592/4/25)

「勝ったか……」 

 丙路の戦いは肥前国軍の圧勝に終わった。

 2万の明軍は壊滅し、生き残った者たちは敗走した。森や谷底、死体の中に身を潜めて追撃から逃れようともがいたが、わずかな物音さえ死の宣告に思え、恐怖と絶望で戦意は尽きていた。

 血と泥にまみれた衣服は敗北の象徴のように重く、空腹と疲労は意識を朦朧もうろうとさせた。故郷や家族を想い、涙する者もいた。

 楊鎬ようこうの生死は定かではない。

 高橋紹運は、甲乙丙の隘路あいろの戦闘結果に安堵あんどした。甲路では史憲誠軍が隘路を突破するも進軍は停止。乙路の祖承訓軍は壊滅し、祖承訓は戦死。丙路の楊鎬軍も2万の兵を失い壊滅したのだ。

 戦況図を前に、紹運は戦果の大きさを噛み締めている。

「これで8割は成った。各部隊は速やかに掃討戦に移り、残敵を殲滅せんめつせよ。負傷兵の治療も怠りなく行え。捕虜は丁重に扱うように。情報を集める事は今後の戦を左右する重要な要素となる。楊鎬を捜せ、もし生きているならば、生け捕りにするのだ」

 紹運の命令で肥前国軍は掃討戦を開始した。

 敗走する明軍を追撃し、隠れた兵士を捜索して討ち取るか捕虜とするのだ。猟犬が放たれ、兵士たちは森や谷底をくまなく捜索する。抵抗する明軍兵士は容赦なく銃弾に倒れていった。




 ■甲路 史憲誠軍

「申し上げます! 乙路軍壊滅、祖承訓軍長討死! 丙路軍は壊滅状態! 軍務様の生死は不明にございます!」

「なんだと! ?」

 昨日の爆音と度重なる銃声は、史憲誠に各路での激戦を想起させた。しかしまさか、祖承訓と楊鎬の両軍とも壊滅するとは思いも寄らなかったのだ。

「まさか……祖軍長と軍務様、両軍とも壊滅とは……」

 明軍の精鋭3万であり、両者とも経験豊富な歴戦の強者なのだ。

 史憲誠は言葉を失い、茫然ぼうぜん自失となった。報告はあまりにも衝撃的過ぎたのだ。昨日遠くから聞こえてきた爆音と銃声は、確かに激戦を物語っていたが、まさかこれほどの惨状になっているとは想像だにしなかった。

 冷や汗が背中を伝うのを感じながら史憲誠は必死に冷静さを保とうとするが、現状を客観的に分析しなければ、自らもまた同じ運命を辿たどることは明白である。

「報告によると、肥前国軍は現在掃討戦を行っている。我々は隘路を突破せずに山中にて敵を破った。しかし、依然として危険な状況にある」

 幕僚たちは沈黙している。彼らの顔にも、恐怖と不安の色が浮かんでいた。誰もが、この先の命運に不安を感じていたに違いない。

「申し上げます! 丙軍を攻撃した大砲は、街道向かいの山中より放たれたようにございます!」

「なんだって? それほどの距離を……」

「将軍、どうすれば……」

 明国軍の武装は強行軍のために軽装備である。もっとも重装備だったとしても肥前国軍に太刀打ちはできなかったが、その報告は幕僚を震撼しんかんさせるのに十分だったのだ。

 史憲誠は地図を広げ、さく州郡から大館郡、そして亀城市までの地形をにらみつけた。

 甲軍は隘路を突破したものの、完全に孤立無援の状態である。乙軍、丙軍との連携はもはや不可能であり、肥前国軍に包囲殲滅される危険性さえあった。

「このまま真っすぐ進軍を続ければ、全軍が壊滅する可能性もある。しかし、撤退すれば平壌攻略は失敗に終わり、責任を問われることになるだろう……」

 史憲誠は苦悩の淵に立たされていた。

「敵将、高橋紹運……恐るべき男だ……」

 別の幕僚がつぶやいた。紹運の巧みな戦術、そして肥前国軍の精強さは、明軍の予想をはるかに超えていた。

「将軍、ここは一旦退却し、態勢を立て直すべきかと」

 一人の幕僚が、進言した。

「しかし、撤退は敗北を意味する。許されることではない!」

 別の幕僚が、声を荒らげた。

「……いや、まだだ。まだ諦めるわけにはいかない」

 史憲誠は、力強い口調で言った。

「ここで退却すれば、すべてを失うことになる。我々は明の精鋭だ。必ずや活路を見出す」

「しかし、将軍……このまま進軍を続ければ、全滅の危険性があります」

「分かっている。しかし今は情報が不足している。まずは敵の状況、そして周辺の地形を詳しく探る必要がある」

「では、斥候を……」

「いや、ここだ」

 史憲誠は昨日撤退した肥前国軍がいるであろう地点を指さした。甲路はもともと隘路が少なく、史憲誠が今いる地点は最後の隘路であり、平壌までは平野の街道が続いている。

「昨日敵は撤退し、今日は何もなかった。乙軍や丙軍は激戦となったにもかかわらず、わが軍はゆっくりと休息をとれた。なぜだ?」

「確かに奇妙ですな。まるで、我々をおびき寄せているかのようです」

 1人の幕僚が顔をしかめながら言ったが、史憲誠も同じ考えを抱いていた。昨日の戦闘では近接戦で数の不利を悟って撤退したのだろうが、乙路や丙路のように、翌日である今日は攻撃をしてこなかった。

 まるで、明軍を特定の場所に誘導しようとしているかのようだ。

「敵の狙いは一体何なのだ……?」

 史憲誠は、地図を睨みつけながら考えを巡らせた。甲軍は隘路を突破したものの、乙軍、丙軍は壊滅状態にある。このまま進軍を続ければ、肥前国軍の思う壺になる可能性が高い。

「もしや、我々が進軍を続けることを前提とした、何らかの罠が仕掛けられているのでは……?」

「その可能性は十分にあります。敵は我々が平壌を狙っている事は先刻承知でしょう」

 もしそうだとしたら、甲軍は極めて危険な状況に置かれていることになる。




 斥候部隊は史憲誠の命令を受け、すぐに散開していった。彼らは訓練された熟練の兵士たちであり、隠密行動と情報収集の専門家だった。森の中、谷底、岩陰、あらゆる場所をくまなく捜索し敵の情報を収集していく。

 数時間が経過した。

 斥候部隊が1人また1人と戻ってくる。彼らは史憲誠に得られた情報を報告していくが……。

「敵は大規模な部隊を街道沿いに展開しております」
「街道には多数の罠が仕掛けられております」
「さらに山岳地帯には大砲が配置されている模様です」

 報告される情報の全てが史憲誠の不安を増大させていった。

 肥前国軍は明らかに甲軍の進軍を待ち構えている。そして恐るべき罠を仕掛け、明軍を殲滅しようと企んでいるのだ。

「やはりそうだったか……」

 史憲誠は苦渋の表情でつぶやいた。彼の予想は最悪の形で的中した。

「将軍、どうしますか? このまま進軍を続けますか?」

 1人の幕僚が尋ねたが、史憲誠は沈黙したままである。

 進軍か撤退か。

 いずれも大きなリスクを伴う選択だったが、しかしもはや時間がない。彼は決断を下さなければならなかった。




「……撤退だ。全軍に伝えよ。速やかに撤退を開始する」

 精鋭4万を三軍に分けて隘路を進むと決定した際は、一縷いちるの望みがあった。肥前国軍の兵力や装備も未定であり、死中に活を求めれば勝つ可能性はわずかにあったのだ。

 平壌を陥落させて兵糧を奪う。

 これが命令を遂行し、自らの命脈を保つ唯一の策であったのだが、状況が変わった。乙軍は壊滅し軍長は戦死、丙軍も大打撃を受けて軍務である楊鎬の生死も不明である。

 その戦闘の情報が次々に入ってくるにつれ、平壌への行軍が絶望的だと悟らざるを得なかったのだ。




 ■天正二十一年三月十五日(1592/4/26)

「おお! 軍務様(楊鎬)! よくぞご無事で!」

「史将軍(史憲誠)か。すまぬな、生き恥をさらしてしまった……」

「何を仰せですか! それならば私も、私も……苦汁の決断ではありましたが、ようやく日本軍に一矢を報い、隘路を突破出来たとおもった矢先、敵の軍容がわかるにつれ、死中に活を見い出すどころか、無駄死にとなる恐れがあり、撤退を決めましてございます」

 史憲誠は歯噛みし、楊鎬は己の不明を恥じていた。

「史将軍もか……」

 楊鎬は、深くうなずいた。史憲誠の判断は的確なものだった。今さら過ぎたことを悔やんでも仕方がない。

「史将軍の判断は正しい。私も、2万の兵を失った責任を重く受け止めている。もはやこの地で戦う力は残っていない……」

 2人は沈痛な面持ちで言葉を交わした。

「史将軍、今後のことを話し合おう。まずは義州府に残してきた沈有容率いる7万の安否である。私には皆を北京へ帰す責任がある」
 
 史憲誠は同意し、2人は今後のことを話し合った。

 残存兵力を結集し、鴨緑江を渡って明国へ帰還することを決めたのだ。そして、朝廷に敗戦の責任を報告し、今後の対策を協議することとした。




 ■天正二十一年三月二十日(1592/5/1)  義州府

「な、なんだこれは……」

 義州府の陣営に到着した楊鎬と史憲誠は、あまりの惨状に絶句した。斥候の報告により義州府の明の陣営が日本軍の攻撃を受けているという事は知っていたが、予想をはるかに超えた状況に絶句したのだ。

「沈将軍、沈将軍はどこにいる?」




 沈有容の所在を知るものは、いなかった。




 次回予告 第786話 『大明出師と港湾封鎖』

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