文久三年二月六日(1863年3月24日)
「首相! これは一体どういう事なんでしょうか? 説明をお願いします」
野党である保守党のエドワード・ヘンリー・スタンリーは激しい口調で首相のパーマストンを糾弾した。
エドワードは政府の侵略戦争に反対する運動を展開しており、アバディーン伯爵内閣が開始したクリミア戦争を批判し、続くパーマストン子爵内閣が開始したアロー戦争も批判してきた。
インド大反乱の際にも復讐政策を取らないよう訴えていたのだ。
議場には緊張感が張り詰め、議員たちの視線はパーマストンとエドワードの間を忙しく行き交う。パーマストンは重々しい沈黙の後、口を開いた。
「スタンリー卿、ご承知の通り我が国は、長らく鎖国政策を続ける日本との通商条約締結に尽力してきました。しかし、生麦において我が国民に危害が及んだことは看過出来ない事実であります。我が国が策略を巡らせて日本側に謝罪と賠償を求めているというのは事実無根であります」
「ではこの記事はなんでしょうか? ジャパン・タイムスだけではなく、複数の新聞が事の経緯を公表し、生麦事件はイギリスの関与により起きたと書いているではありませんか。しかも前公使、オールコック氏の名前まで出ています。これでも政府は関与していないと?」
エドワードはたたみ込んだが、パーマストンは落ち着いた様子で答える。
「スタンリー卿、確かに複数の新聞がそのように報じております。しかしそれらの記事は全て、日本側からの情報に基づいたものであり、客観的な証拠に基づいたものではありません。我が国は、そのような陰謀には一切関与しておりません」
「客観的な証拠がない? では、なぜ政府は独自の調査を行わないのですか? もし本当に潔白なら自ら真相を究明し、国民に示すべきではないでしょうか?」
エドワードはさらに追及したが、パーマストンも引き下がらない。
「既に調査を行うよう指示を出しておりますが、誓って生麦事件は日本側の責任であり、我が国は正当な要求をしているに過ぎないと断言できます。その上でもし、日本が要求を呑まないのなら、外交上の措置を取らざるを得ないと考えます」
「外交上の措置とは、具体的にどのようなものですか?」
エドワードは、パーマストンの言葉尻を掴んで問い質した。議場は野党からのそうだ、そうだ! という野次と、それに反論する与党の野次が交錯する。
「静叔に! 静叔に! パーマストン首相、答弁をお願いします」
いったん静まった場内で、議員たちの視線はパーマストンに集中する。
「それは、状況に応じて適切に対応を検討するという事です」
曖昧な返答に、エドワードは冷笑した。
「適切な対応? それは言葉巧みに侵略を正当化する方便でしょう。まさか、更なる武力行使を考えているのではないでしょうね?」
「それも考慮しています。スタンリー卿、あなたはクリミア戦争におけるアバディーン内閣や、清国においての私の政策を批判しているようですが、終わった事をいろいろと批判するのは簡単です」
パーマストンはいったん話すのを止め、議員達が自分に注目しているのを確認して続けた。
「その時その時に、国益を第一に考えて行動するのが国会の議員の役目であり、内閣の長である私の役目なのであり、重責なのです。死人は出なかったとはいえ、結果的にわが国民が傷を負わされたのです。これをどう考えるのですか?」
エドワードはパーマストンの言葉に即座に反応した。
「首相、貴方は今、『死人は出なかったとはいえ』と言いましたね。つまり、もし死人が出ていれば、今のこの状況を正当化できるとでも言うのですか?」
議場がどよめいたが、パーマストンも持論を展開する。
「……? 今この状況を正当化? どんな状況で何を正当化するというのですか? 重要な事は……国民の生命や財産を守る、主権国家たる大英帝国の首相として、このような傍若無人な行いは許されない、断固とした態度をとると、諸外国に、国民に示すべきでしょう?」
「首相、貴方の言う『傍若無人な行為』とは、一体何のことですか? 生麦事件は、日本側の証言によれば、イギリス側の仕組まれた挑発行為が原因で起きたとされています。それなのに、日本側に責任を押し付け、謝罪と賠償を要求する。これが、貴方の言う『断固とした態度』ですか?」
エドワードは、一歩も引かず、パーマストンに迫った。
「はあ……。スタンリー卿、あなたは日本人ですか?」
深いため息と共に発せられたパーマストンの突然の質問に、議場は静まり返った。エドワードは一瞬たじろいだが、すぐに冷静さを取り戻す。
「首相、今の質問は何を意味するのですか? 私はイギリス国民として、イギリスの正義を問うているだけです」
「正義? あなたは日本側の証言を鵜呑みにし、我が国の正当な主張を非難している。まるで、日本側の代弁者のようです」
パーマストンは皮肉を込めて言った。
「代弁者ですと? 私はただ、事実に基づいて判断しているだけです。日本側の証言は、無視するにはあまりにも具体的で、信憑性があります。それに対して、政府は明確な反論もせず、調査も拒否している。これでは、国民は納得しません」
「拒否? あなたは私の話を聞いていなかったのですか? 調査は命じた、と言いませんでしたか? ついさっき。それのに事実事実と仰るが、何をもって事実とするのですか」
パーマストンは傍らに座っている外務大臣のジョン・ラッセルに目をやるが、ラッセルはうなずいて肯定している。
「首相、調査を命じたとのことですが、具体的な調査内容は明らかにされていませんし、調査結果も公表されていません。一体、どのような調査が行われているのか、国民には全く分かりません。本当に公正な調査が行われていると、誰が信じるでしょうか?」
「よろしい。ではスタンリー卿、調査内容とその結果を公表すればご満足ですか?」
うんざりしたような表情が見え隠れするが、それを努めて冷静にパーマストンは発言した。
「もちろんです。それが、国民に対する政府の義務です」
エドワードが即座に答えると議場全体に緊張が走った。
「しかし、調査内容は外交上の機密事項を含んでおり、全てを公表することはできません。それでも、よろしいですか?」
パーマストンは少し間を置いてから口を開いたが、エドワードはパーマストンの言葉を予想していた。
「機密事項というなら、その部分を伏せて公表すればいい。重要なのは、事件の真相が明らかになることです」
「なるほど、ではそうしましょう。私は常にイギリスの国益、すなわち国民の生命、財産、利益を第一に考えてきました。よろしいですか? それが今日の繁栄をもたらしている事を、みなさんお忘れないように。……もう、よろしいか?」
「結構です」
「首相、お疲れ様でした」
ラッセルがねぎらいの言葉をかけた。
「ふうー、毎度毎度面倒な男ですな。しかし、形だけでも調査をしなければならなくなりましたね」
「それは仕方ないでしょう。少し時間はかかりますが、日本側にはこちらが調査を行うと言えば、賛成こそすれ反対はしないでしょう」
「うむ、まあ日本側に有利な結果はでないのは分かっているので、あとはすぐに艦隊を派遣できるようにしとかねければならない。インドと清国の艦隊で、どのくらい日本に派遣すればよいか、海軍大臣に確認しておくとしよう」
「はい、外交筋ではニックに上手く説明するように、また上海にも手を回しておきます」
「頼みましたよ」
次回予告 第311話 『和宮の懐妊と家茂上洛』
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