第332話 『下関戦争-長州海軍と幕府海軍-』

 元治元年四月十一日(1864/5/16)

「くそっ! やはり無理か!」

 助けられる味方は助けなければならない。

 人道的見地からはもちろん、戦力保持の意味合いもある。しかし、それがために全体が危険にさらされては意味がないのだ。一分一秒を争う判断であった。

「無念! レオパードは……曳航えいこうしない!」

「はっ」

 副官はキングの命令を復唱し、断腸の想いで命令を伝えた。この上は絶対に脱出しなければならない。ギリギリの判断であったが、前方に大村海軍、後方には長州海軍がいる。

 挟まれては勝ち目がない。時間との勝負である。

 キングは突破に全神経を集中させた。




「艦橋-見張り! 右舷、イギリス艦隊、単縦陣で突っ込んでくる!」

「司令官! このままでは間に合いません! 海峡を封鎖する前に敵に突破されてしまいます!」

 鹿児島湾海戦と同じように関門海峡の西側を封鎖しようとしていた次郎であったが、海峡の西側出口は現在と違って埋め立てておらず、彦島の西岸から対岸までは8~10kmほどの距離があった。

 鹿児島湾の湾口部も同じくらいの距離があったが、あの時は十分に時間もあり、敵であるキューパーも満身創痍そういだったのだ。

 大村艦隊が艦首砲でイギリス艦隊を狙って取り舵回頭した時点でさえ、対岸までは5km強あった。

「機関停止(完全に停止ではない)! 同航戦用意!」

 イギリス艦隊との距離と方角から敵針敵速をわりだし、最適の地点で最大戦速として同航戦に入る。

 早い場合はまだいい。後続の艦艇に任せれば良いからだ。しかし遅れた場合は、最悪はイギリス艦隊の先頭の1~2隻は取り逃すことになる。慎重にタイミングを計る。

「航海長、頼むぞ」

「はっ」




「機関室! もう少し速度はでないのか! 最初はなんとか届いておったが、これでは追いつくどころか離されてしまう!」

 晋作は甲板に出て指揮をとっていたのだが、どうにも機関の調子が悪いのである。

 癸亥きがい丸は4隻ある長州艦隊のうちの蒸気船で、もう1隻の蒸気船である壬戌じんじゅつ丸、帆船の庚申こうしん丸と丙辰へいしん丸を従えて航行していた。大村藩に発注して最近就役していたが、機関は中古である。

 メンテナンスもしていたが、故障がないとはいえない。

「まったく! せっかく大村家中に注文して造ったんじゃから、船体だけじゃなくて機関も新品にせんと意味がなかろう! 大事なときに使えんじゃ話にならんぞ!」

「晋作、そうは言っても台場をはじめ金のかかる事ばかりじゃ。全部が全部新品とはいかんじゃろう」

「それはそうじゃが……」

 晋作のぼやきに山県狂介(有朋)が応える。晋作にとっては大村遊学中の大村藩がベースになっているので、長州藩との技術の開きにもどかしい思いをしていたのだ。

「晋作さん、前方には友軍たる大村艦隊がいるんです。あせらずとも獲物は逃げませんよ」

 同じ奇兵隊の河上弥市が、とぼけた感じで笑って晋作をちゃかした。

「あっ!」

 弥市が叫んだその先には、幕府の軍艦である幡龍ばんりゅう、朝陽、観光があった。




「長州め、おおかた晋作であろう……控えていろとの命であったろうに。次郎様の命が聞けぬと見える」

 艦隊司令官の矢田堀景蔵は六位相当の布衣ほいで、このときは軍艦奉行並であったが、艦隊司令官に任じられて長州へ来ていたのだ。勝海舟と同じく大村の伝習所で学び、晋作の遊学の時期とかぶっている。

 そして次郎の『べし』を『たし』にあえて変えて発令した意味を、理解して重んじていた。しかし長州が抜け駆けをするのであれば別の話である。

「松岡君、幡龍はまだ早くなるかね?」

 景蔵の問いに艦長の松岡磐吉ばんきちが答える。

「いま巡航速度の7.7ktです。無理をすれば9ktまでは出せると思いますが、もって半刻(1時間)でございましょう。それ以上は機関に負荷がかかりすぎまする」

「……では仕方ないな。今は無理をするときではない。あの様子では長州もこれ以上はでまい。このままでよかろう。まったく……晋作め、練度が違うんだよ練度が」

 景蔵は晋作が嫌いなわけではない。ただ単純に素直な気持ちが出ただけだ。

「しかし司令官、敵は味方艦の曳航を早々と諦めたようです。大村艦隊へ全速力で向かっているようです。大村艦隊もまだ完全に封じておらぬようですから、もしかすると突破を許すやもしれません」

「次郎様なら然様さような過ちは犯さぬよ。なにか策を考えておろう」

 磐吉が冷静に望遠鏡で前方の海上を観察して言うと、景蔵も同じように海上を眺めながらいった。




「敵艦距離ゴーゴー、ゴーヨン、ゴーサン……ゴーマル(5,000m)!」

「両舷最大戦速(実際は原速の12kt~強速の15kt)!」

 イギリス艦隊の艦艇は速度に4ktほどの開きがあるが、これは艦隊運動をするうえでかなりの足かせである。ラトラーやバウンサーなどの低速艦は足手まといになるからだ。

 その点大村艦隊は新型機関の開発が間に合ったので、速度のバラツキはあるがどれも10kt以上はだせるようになっていた。艦隊運動に最適化されているのだ。

 極東の島国と見下していたのが理由なのかは不明だが、ともかくそれがイギリス艦隊の現実である。また、イギリス艦隊は逐次回頭ではなく一斉回頭をしたせいで、航行順序が逆になっていた。

「敵艦距離ヨンマル(4,000m)!」

「とーりかーじ!」

「とーりかーじ、取り舵十五度」

「戻ーせー」

 艦橋では艦長の指示の元、イギリス艦隊と同航戦をするべく変針している。測距儀からの距離を目安に、完全に勘と経験の世界で赤黒も調整しながらやっている。

 この状況を想定した、月月火水木金金の艦隊運動の訓練が功をそうしているようだ。

 お互いの先頭艦の距離のズレがないように慎重に操艦しているので、このまま順調にいけば同航戦になり、直接対決となる。もちろん次郎はアウトレンジからの攻撃を忘れない。

 イギリス艦隊の主力兵装であるアームストロング砲は最大射程が3,600m。対する大村艦隊のクルップ砲は3,900mだ。大村艦隊にもアームストロング砲はあるが、もちろん尾栓を改良して暴発事故を防ぐ仕組みにしてある。

「もう少し、もう少しだ」

 次郎は手に汗を握りながらその瞬間を待つ。




 次回予告 第333話 『同航戦』

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