文禄四年六月十一日(1595/7/17)
純正の隠居と純勝の家督相続は、小佐々家家中だけではなく、大日本国中を騒然とさせた。
純正自身はまったくそのつもりはなかったが、与える影響が大きすぎたようだ。
そのため純正は、完全に隠居するわけではないこと、後見役として判断の前後に助言をすること、いきなりではなく徐々に権限を委譲していくことを宣言した。
そもそも実力重視の小佐々家の家風である。肥前国の制度自体も、家柄は関係なく本人の努力と成果次第で立身出世できるとあって、抜群の成果をあげていた。
そんな中、いわゆる大権たる小佐々家の家督継承であるから、内外からの批判を受け流す必要があった。
そこで純正は一計を案じた。
「父上、ご用とはなんでしょうか?」
純勝は恐る恐る父である純正の前に進んだ。
「おい、なにも取って食おうというんじゃない。お主にやってもらう事を考えたのじゃ」
「なんでしょうか?」
「うむ、家督の相続について、大きな声ではないが批判の声があがっておるのは知っていよう?」
「はい、もとよりそれがし、父上と比べる才などございませぬゆえ」
「馬鹿者! 確かに人の上にたつ者として、ひとかどの才はいるであろう。されどこれから先の世は戦よりもいかに民に安寧をもたらすかが重しとなる。お主の人との調和を尊ぶ考えや能力を、オレは買っているのだぞ」
そういって純正は息子のやる気を起こさせようとする。
「うむ、そこでだ。お主にはまず、奥州地方の開発事業を任せたいと思う」
純正の言葉に、純勝は驚きを隠せなかった。
「奥州の開発……ですか?」
「そうだ。わが肥前国が沿海州はむろんのこと、北加伊道のはるか北、樺太や千島を越え、アメリカ大陸まで開拓をしているのは知っておろう?」
「は、存じております」
純勝は神妙な面持ちで聞き入っている。
「そこでな、彼の地の食料や物資の供給が滞りがちなのじゃ。むろん自給自足できるよう整えてはおるが、足りぬのよ。さすれば奥州の地をさらに開拓し、その秘めたる力を引き出さねばならないと考えたのだ」
「ではつぶさには、いかなることを為せばよいのでしょうか」
具体的になにをすればいいのか? これがわからなければ話にならない。
「うむ、彼の地、彼の地がまだ蝦夷地と呼ばれておった二十数年前、はじめて太田和屋の弥次郎、知っておるだろう? 彼の者を探険に出したのだ。それから様々なことに挑み、試してきた。いまでは大いにその実りを享受しておる」
純正が北海道でやってきた開拓は以下のとおりである。
・寒冷地に適した稲の品種改良で稲作を可能とした(一部地域)。
・ジャガイモや大豆などの寒冷地向けの作物を栽培(食料供給)。
・西洋式農法を導入し、広大な土地の効率的利用が可能となった。
・石炭や硫黄などの鉱山開発。
・木材の伐採と加工(建築資材・紙・家具)。
・港湾施設や道路、一部ではあるが鉄道が整備され、物流網を形成。
・小樽港や函館港は、北方地域と本州を結ぶ重要な拠点となる。
・食料保存技術の発展により、干物や瓶詰などの加工食品産業が成長。
これにより遠隔地への食料供給が可能となり、北方地域への支援が安定したのであるが、それでもまだ不足していたのだ。
「そこでお主に奥州で同じことしてもらい、五年を目処に成果をあげるのだ。然すればお主の功にもなるし、家督についていろいろと言う者どもも減るであろう」
純勝は父の言葉を聞き、その重責に身が引き締まる思いがした。
「承知いたしました。父上のご期待に沿えるよう、全力を尽くす所存でございます」
そんな純勝を見て、純正は微笑んだ。
■数日後
純正が戦略会議衆と閣僚の面前で純勝の奥州行きを発表すると、重臣達の間からどよめきが起こった。
純勝に実績を積ませて、名実ともに家督相続の権利があり、その実力もあることを示そうという純正の意図が見えたからである。さすがに露骨に異を唱える者はいなかったが、それでもいまだ懐疑的に思っている者達がいるのも確かだ。
そんな重臣らの前に純正がつかつかと歩み寄る。そして大きく息を吸い込み、一気に言い放った。
『これは決定事項である!』と。
怒鳴るわけではなく、叱責するわけでもない。
ただその事実を告げただけであるが、実は小佐々家内にも派閥があったのだ。これは現代にもある事だからなんとも言えないが、結局お家騒動で主導権を握りたいというのが本音だろう。
その領袖に祭り上げられている者ははた迷惑であるが、純正はその機先を制した。実績をあげてしまえば良いのだ。
「オレは十二で沢森、今の太田和家の家督をついだ。小佐々の家督をついだのが十四の時だ。二十六の平十郎が家督をつぐのがそんなに珍しいことか?」
純正の言葉に戦略会議衆筆頭の鍋島直茂がつづく。
「殿下、然様なとことを皆が申し上げているのではありませぬ。殿下の御父君は還暦を過ぎてなおご壮健ではいらっしゃいますが、家督を譲られたときは死線をさまよったとか。また小佐々の名跡を継いだ際は、先代の今際の際の頼み事だったというではありませんか。殿下は今まさにご壮健、ここで急いで家督を譲り、平十郎様に功を積ませようとなさらずともよいのでは、という事にございます」
なればこそだ、と純正は直茂が言い終わるやいなや反論した。
「よいか、オレが死ぬ、もしくは完全に隠居をして平十郎に家督を譲るとなれば、それはもう一から十まで平十郎がすべてを執り行うということだ。そしてそれは、つつがなく、さわりなく委譲されねばならぬ。その時になって出来ませぬや知りませぬでは通らぬぞ」
万座が静まりかえり、純勝の奥州行きが決まった。
次回予告 第814話 『ロシア・ツアーリ国のフョードル1世』
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