文禄四年七月十七日(1595/8/22) ロシア モスクワ
イワン雷帝の息子であるフョードル1世が崩御して5年。
崩御前から摂政であったボリス・ゴドゥノフは次々に政敵を駆逐し、事実上の権力者であったが、フョードルの崩御後に即位してツアーリとなっていた。
ボリス・ゴドゥノフは執務室で窓から差し込む夏の陽光を浴びながら、忠実な家臣からの報告を聞き、考え事をしている。
「陛下」
側近のセミョン・ニキーチンが恭しく声をかけた。
「シベリアからの報告書が届きました」
「ふむ、毛皮はわが国の重要な交易品の1つであるからな」
ゴドゥノフは顔を上げ、鋭い視線でニキーチンを見つめる。
「読み上げよ」
「イェルマークの遠征隊がシベリアの奥地に到達し、新たな毛皮の産地を発見いたしました。しかし、現地の部族との衝突も報告されており、肥前国と名乗る鉄砲を所有する国家の兵が砦を築き、わが軍の行く手を阻んでおります」
ニキーチンは書類を広げ、声高らかに読み始めた。ゴドゥノフはあごひげをなでながら、じっと考え込む。
「なに? 前回も前々回もほとんど同じ報告だったではないか。いったいどうなっているのだ? シベリアは我がロシアの未来だ。なんとしてもあの土地をわが領土としなければならん。それで、どうなのだ? 詳しく話せ」
ニキーチンは緊張した面持ちで続けた。
「はい、陛下。その兵たちは、我々の予想をはるかに超える戦闘能力を持っているようです。彼らの鉄砲は我々の物よりも性能が高く、射程も長いと報告されています。また、彼らは驚くべき速さで砦を築き、我々の進軍を阻んでいます」
ゴドゥノフは眉をへの字に曲げて聞いている。
「いったいどこの国なのだ? キタイ(契丹がなまって当時の中国を意味)やシナ(現在の中国)の東にそんな国があるのか? 我々の知らぬ国が、なぜシベリアにあるのだ?」
ニキーチンは緊張した面持ちで答えた。
「はい、陛下。イェルマークの報告によりますと、その兵たちは我々とは全く異なる言葉を話し、キタイやシナの兵の服とも違ったようです。ヤツらの民族や国家の詳細は不明です」
ゴドゥノフは深く考え込んだ。
「ではその未知の国の兵がシベリアの地を領有し、われらが進むのを阻んでいると言うのか?」
ニキーチンは慎重に言葉を選びながら答えた。
「はい陛下。彼らは我々の進軍を阻んでいますが、さすがにシベリア全土を領有しているわけではありません。現在確認されているのは、アムール川上流のシルカ川とアイグン川の合流点付近に築かれた砦のみです。しかしその砦の規模と防御力は、相当なものだと報告されています」
ゴドゥノフはため息をついて立ち上がり、窓際に歩み寄ってクレムリンの壮麗な景色を眺めた。
「シベリアは我がロシアの未来だ。あの地の豊かな毛皮資源は、わが国の繁栄に不可欠だ。しかし……その敵と戦って勝てるのか? 戦うとすればどの程度の兵力が必要なのだ?」
「陛下、残念ながら情報不足ですので正確な数字を申し上げる事はできません。ただ、イェルマークの報告によると、敵の兵力は我々の予想をはるかに超えています。1,000や2,000の兵では太刀打ちできないでしょう。万を超す、5万か10万か……」
「そうか。これは厄介な問題だ。西方の脅威を考えると、そこまでの兵力をシベリアに割くわけにはいかんな」
ゴドゥノフは再び椅子に腰を下ろした。
「ではまずは……情報の収集だ。いままでの探検隊の倍、いや3倍の数をもって情報を集めよ。その未知なる国の情報を集めるのだ。砦の具体的な兵の数、武器、補給の拠点や様々な情報を。その国の情報もだ。おそらく数年はかかるだろうが、何事も始めねば進まぬからな。同時に軍備も強化せねばならぬ。西方はどうなのだ、南方は?」
「はい、陛下。西方では、ポーランド・リトアニア共和国がわが国の西部国境周辺で軍事演習をしているとの報告があります。南方では、オスマン帝国がクリミア半島周辺で活発に動いているようです」
ニキーチンの返答にゴドゥノフは深いため息をついた。
「……三方を敵に囲まれている。これは容易ならぬ事態だ」
ゴドゥノフは思案顔で執務室を行ったり来たりしたが、突如足を止め、ニキーチンに向き直った。
「我々は、この国を根本から変えねばならん。西欧の強国に対抗していくには、現状では力不足だ。まずはポーランドとオスマン帝国とは和を結ぼう。もちろん攻めてきたなら戦わなければならんが、こちらから攻め込むことはしない」
ニキーチンは黙って聞き続けた。
「そのためにまず、抑止力として軍を近代化しなければならない。西欧の最新の武器と戦術を学び、わが軍に取り入れるのだ。そのために優秀な若者たちを西欧に派遣し、学ばせよう」
「陛下、では具体的にはどこに?」
「オランダだ。彼らの軍事技術は目覚ましい発展を遂げている。特にマウリッツ公の戦術革新には目を見張るものがある。彼の考案した横隊戦術と連続射撃の方法は、我が軍にとって大いに参考になるだろう」
ニキーチンは熱心にメモを取りながらうなずいたが、続けて提案する。
「ならば陸路は難しゅうございますな。ポーランド・リトアニア共和国にしてもオスマン帝国にしても、まずは和平を持続することを目標にいたしましょう。その間にバルト海沿岸の港を開発し、海路でオランダを目指すのがよろしいかと。スウェーデンとの戦いを優位に進めるためにも重要でございます」
ゴドゥノフは興味深げにニキーチンの提案を聞き、深くうなずいた。
「よく考えたな、ニキーチン。確かにバルト海の港の開発はわが国の未来にとって不可欠だ。スウェーデンとの戦いも考慮に入れねばならん」
ゴドゥノフはニキーチンの提案を注意深く聞き、時折うなずいて考えながら、具体的な戦略を練り始めた。
「まずフィンランド湾岸の防衛を固める必要がある。イヴァンゴロドとナルヴァの要塞強化と新規港湾建設が急務だ。そこでネヴァ川河口にも港を築き、将来的な拠点とする」
ニキーチンはゴドゥノフの発言を記録しながら、追加の提案をした。
「港湾建設と並行して、造船技術の向上も図るべきです。オランダやイングランドから造船技師を招いてはいかがでしょうか」
「その通りだ。造船所の新設も必要となる。バルト海における商船隊の運用と海軍力強化のためには不可欠だ」
ゴドゥノフは二キーチンの言葉に同意しつつも、今後の課題を口にする。
「しかし、これらの事業には莫大な資金が必要となる。戦費で逼迫した国庫では難しい。財源をどう確保するか、ニキーチン」
ニキーチンは熟考の後、提案した。
「商人たちに協力を要請してはいかがでしょうか。特権付与と引き換えに、港湾建設や貿易への投資を募るのです。ノヴゴロドやプスコフの商人はバルト海貿易に強い関心を抱いています」
「商人たちか……」
ゴドゥノフは腕を組み、ニキーチンの提案を吟味する。
「彼らの私欲を利用するか。悪くない。特権を与え、資金と同時に彼らの持つ影響力もわが国のために活用する。一石二鳥だ。よし、決めたぞ! バルト海沿岸の開発を最優先課題とする! この計画を『バルト海戦略』と命名し、新規港湾建設、造船技術の向上、商船隊と海軍の強化を推し進める!」
「承知いたしました」
ニキーチンは深く頭を下げた。
「直ちに計画の詳細をまとめ、商人たちとの交渉を開始せよ。ロシアの未来は、この計画にかかっているのだ」
ゴドゥノフの言葉には、強い決意が込もっていた。
■諫早城
「そうだ、最近ロシアの動きはどうだ?」
「は、定期的に砦に攻め寄せては来ておりますが、少数とのことにございます。徐々にその数は増えておりますが、今はまだ障りなしかと」
「うむ、されど油断は禁物ぞ。そう申し伝えておくのだ」
「ははっ」
次回予告 第815話 『電気と蒸気』
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