文禄四年十一月二十九日(1595/12/29)
「手ぬるい!」
ウィラブラタの怒号が王宮に響き渡った。その声にムハンマドは拳を握りしめて凝視した。
「民の怒りは正当だ。肥前国の横暴を許すべきではありません!」
ウィラブラタはそう声をあげ、ズカズカと前へ進み出て激しく主張した。その姿はまるで戦場に立って兵士を鼓舞しているようである。プラタマは冷静さを保とうと努めながら、ウィラブラタに向き直った。
「将軍、軽はずみな行動は危険です。肥前国の力は絶大。我々には慎重な外交が必要です」
「外交だと? この体たらくになるまで、貴様ら文官は何をしておった! 武官たる我らは、このオレが長となってからは少なくとも賄賂も腐敗とも無縁だ! もしあればその場で斬り捨てておるわ! ……そんな貴様らが、今さら何を外交できると言うのだ!」
ウィラブラタの視線は王からプラタマへ移った。プラタマは唇をかみ締め、冷静さを保ちながら、言葉を選び反論する。ここで主導権を握られては、王国の未来はない。
そう思ったのだ。
「将軍、確かにこれまでも我々の対応に不備があったことは認めます。いや、小さな問題を放置し続けた結果、まるで鍋の中の蛙のように、危機に気づかぬままここまで来てしまったのかもしれない。しかし、今は冷静に事態を分析し、最善の策を講じるべきです」
ムハンマド王は二人の重臣の激しい議論に困惑の表情を浮かべた。せき込みながら、かろうじて声を絞り出す。
「両者の意見はもっともだ。だが、今は冷静に事態を把握せねば」
王の言葉に2人は沈黙したが、その静寂は長くは続かなかった。
「ウィラブラタの言う民の怒りも、プラマタの言う外交の重要性も理解できる。だが、今は――」
「陛下! 暴徒が宮殿に押し寄せています!」
ムハンマドの言葉は突然の喧騒で遮られた。宮殿の外から怒号と悲鳴が聞こえてきたのだ。慌てて駆け込んできた衛兵の表情には、恐怖の色が浮かんでいる。
王宮は緊張に包まれた。
ウィラブラタは剣を抜き、プラタマは王の側に駆け寄った。
「陛下! 決断の時です! この民衆の怒りを収めるには、ともに肥前国を討とうという、陛下の一言しかありません!」
「いけません陛下! 国をあげて肥前国に立ち向かうとは、正気の沙汰ではありません! 国が、王国が滅びますぞ!」
「ええい! そのような世迷い言、まだ言うか! ではどうするのだ! 貴様の言う言葉で民が納得するのか? この騒動が収まるのか?」
ウィラブラタの鬼気迫る形相にプラマタは一瞬ひるむが、意を決して言う。
「わかりました! 私が行って説得してきます!」
「な! バカを言うな、殺されるぞ!」
「構いません!」
プラマタもまた、命をかけて国を救おうとしていたのだ。
「みなさん! どうか冷静に! 冷静になってください!」
プラマタは衛兵に頼んで大きなドラを数回たたいて注目させ、声を張り上げて言った。群衆は丸腰ではない。棒や石、クワやその他の農具、刀や槍で武装している者も多かった。
それに商人だけではない。農民や町人の多くも暴動に加わっていたのだ。
「みなさんの怒りはよくわかる。肥前国の横暴に我慢ができないのだろう。だが、暴力は解決策にはならない」
プラマタの第一声は怒号に満ちた群衆の中に響きわたり、一部の民衆は一瞬動きを止めた。プラマタはその隙を逃さず、さらに声を張り上げたのだ。
「何を言っている! お前たちが肥前国に買収されているからこうなったのだ!」
群衆の中から不満の声が上がったが、彼はその声に動じることなく冷静に応じる。
「確かに我々にも落ち度があった。だが、今こそ冷静に考えるべきだ。肥前国と全面対決すれば、わが国は滅びる」
その言葉に群衆の中から動揺の声が漏れる。プラマタはその反応を見逃さなかった。
「我々にはまだ希望がある。肥前国と交渉し、公正な貿易を求めるのだ。わが国の繁栄は、みなさんの手にかかっている」
プラマタの言葉は少しずつ群衆の心に染み込んでいるようだった。しかし――。
「嘘つけ!」
群衆の中から、一人の男が飛び出してきた。その手には、鋭い刃物が握られている。
「お前たちの甘言にだまされるものか!」
男はプラマタに向かって突進した。プラマタは、その姿を凛として見据えた。
「私の命など惜しくない。だが、バンテン王国の未来を考えてほしい」
プラマタの毅然とした態度に男は一瞬動揺したが、そのまま突っ込んでくる。
「捕らえろー! !」
そう叫んだウィラブラタは突進してプラマタに抱きついて倒し、暴漢の襲撃から救う。
「だから言ったではないか! 無事か?」
「あ、ありがとうございます」
暴漢が取り押さえられた事によって一時は収まったが、再び群衆は猛り狂って叫び声を上げている。
「お前らはいつも口だけだろう!」
「そこに立っているヤツら全員甘い汁を吸ってんだろ!」
「殺されないうちに消えろ!」
「肥前国のヤツらは皆殺しだ!」
群衆の怒号が再び高まる中、王宮の扉が開いた。ムハンマド王が姿を現したのだ。王の登場に群衆は息をのんだ。
「民の皆、余の言葉を聞いてほしい」
ムハンマド王の声は弱々しくも毅然としていた。王はせき込みながらも、言葉を続ける。
「わが国の繁栄は、我々全ての願いだ。肥前国との関係に問題があったことは認めよう。だが、今こそ冷静に対応すべき時だ」
王の言葉に、群衆の動きが止まった。ムハンマドはさらに続けた。
「プラタマの言うように、外交による解決を模索する。同時にウィラブラタの意見も尊重し、わが国の利益を守る。両者の知恵を借り、この危機を乗り越えよう」
王の言葉は、群衆の心に響いた。怒りに燃えていた顔々に、冷静さが戻り始めた。
「陛下、ご英断に感謝いたします」
プラタマが頭を下げる。ウィラブラタも、渋々ながら同意した。
「わかりました。陛下のお言葉に従います。しかし陛下、具体的にどうするのですか?」
「私に腹案がございます」
ムハンマドとウィラブラタはプラマタを見る。起死回生の策があるのだろうか。
「プラマタよ。どうするのだ」
「ネーデルランドとの取引を拡大するのです」
……ネーデルランド?
■文禄四年十二月五日(1596/1/4)
「そ、総督! 大変でございます!」
「なんだ新年早々、悪いしらせなら聞かんぞ、縁起でもない」
肥前国では早くからグレゴリオ暦が採用され、旧暦は現在と同じように祭祀関連に留まるようになっていたのだ。
総督の籠手田安経はそう言って笑いながら使者を見た。
「バンテンにて暴動発生! わが国の商人が襲われ、大使も刺殺されましてございます!」
「なにい!」
新年4日の出来事である。
次回予告 第821話 『バンテン王国とネーデルランド、総督府と純正』
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