文禄四年十二月二十八日(1596/1/27) バンテン王国
「さあさあっ! 重苦しい話は終わりじゃ! 終わりっ!」
純正は立ち上がって、万座に向かって呼びかけた。
「ムハンマド殿、発端はコショウの貿易だと聞き及んでおる。今後、いかがなさるおつもりか?」
純正の話し方は柔らかい。
「陛下、コショウ貿易の衰退は深刻な問題です。かつては年間7,000バーラ(約1,250トン)から11,000バーラ(約2,000トン)ものコショウを扱っていましたが、今では見る影もありません」
ムハンマド王は純正の柔らかくなった口調に少し安堵しながらも、慎重に言葉を選んだ。
「うむ、それは余も考えていたところであるが、民の商いに国が規制をするのもどうかと考えていたのだ。無論、違法な商人は取り締まるが、良い物をより安く、これは商いの基本であるからの……いかがなさる?」
純正はかつて織田と同盟を結んでいたころや、日ノ本大同盟の経済格差を思い出していた。依然として肥前国と大日本国とでは大きな隔たりがある。
「陛下のおっしゃる通りです。商行為の基本を無視はできません。しかし、わが国の経済を支えてきたコショウ貿易の衰退は深刻な問題です」
ムハンマドは純正の言葉を受け、じっくりと考えて答えた。しばらく間をおいて慎重に続ける。
「我々は新たな道を模索せねばなりません。コショウ以外の産物の開発や、付加価値の高い加工品の製造など、様々な可能性を探っているところです」
「それで、具体的には?」
「具体的には、まず我々の強みを活かすべきだと考えています」
ムハンマドはゆっくりと話し出す。
「バンテンは古くから香辛料の交易で栄えてきました。コショウ以外の香辛料、例えば丁子(クローブ)や肉豆蔻(ナツメグ)などです。これらも需要が見込めるのではないかと」
純正は静かにうなずき、ムハンマド王の言葉に耳を傾けた。大広間の空気が、わずかに希望の色を帯びる。
「また、我々の港の地理的優位性も活かせるはずです。スンダ海峡の要衝に位置するバンテン港は、今後も重要な中継地点となり得ます」
ムハンマドの声にはかすかな自信がにじんでいたが、純正は淡々と聞き返す。
「クローブやナツメグも、コショウと同じでわが領内で大量に生産しています。バンテンで中継? 何を中継するのですか?」
ゴクッと唾を飲み込む音が聞こえてきそうである。
「確かに、肥前国での香辛料生産は我々にとって大きな課題です。しかし、バンテンには長年培ってきた交易のノウハウがあります」
ムハンマドは机の上に広げられた地図を指さしながら説明を続けた。
「バンテン港は、インド洋とジャワ海を結ぶスンダ海峡の要衝に位置しています。この地理的優位性を活かし、東西の商品を中継する拠点として機能させられるのです」
純正は興味深そうに聞き入りながら、さらに問いかけた。とりあえず、一応聞いておこうという態度がどうしても見え隠れしてしまう。
「東西の商品とは、具体的になにを想定しているのですか?」
「例えば、インドや中東からの織物、陶磁器、宝石などの贅沢品を東へ。そして東南アジアの特産品、例えば香木や真珠、スズなどを西へ。これらの商品の中継地点としてバンテン港を位置づけるのです」
「……ふむ。しかしインドや中東の産物はポルトガルやわが国は直接仕入れている。それを東へ売り、東の香木や真珠、スズなども領内で産するゆえ、そのまま誰も介さずに売っているが……?」
仲介してもらわなくても、肥前国はいっこうにかまわないのだ。
「中継地点とは通行料を収益にするのだろうか? それとも売値に上乗せするのだろうか?」
純正はうなずきながらじっくり聞いた上で、そのまま包み隠さずに現実を突きつけた。
「それに……良いですか? わが国はスンダ海峡でも、マラッカ海峡でも、どちらでもいいのです」
肥前国はどちらとも友好関係にあるから当然だ。
「ポルトガルはわが国が貿易で優遇する代わりに、通行税を優遇してくれています。そして今、2つの海峡を比べてどちらの交通量が多いか、国王はご存じでは?」
純正の鋭い指摘に、ムハンマド王の表情が曇った。
「確かに陛下のおっしゃるとおりです。現状では、我々の中継貿易構想には課題が多いことは認識しております」
ムハンマドは言葉を選びながら答えた。純正の指摘した現実を否定できない。
「しかし、バンテンには他にない強みがあります。我々の港は古くからの交易の中心地として、多様な商人たちが集まる場所なのです」
……。
しばらくの沈黙のあと、純正は口を開いた。
「……他にはない強みが(あった)。……交易の中心地で(あった)。……集まる場所で(あった)。の間違いではないのですか? すべて過去の事に思えますが。厳しくとも、現状を把握して認めなければなりません」
純正はだんだんイライラしてきた。
いつの話をしているんだ? 早急に具体策を講じなければならない時なのに、なぜこんなに楽観的なのか? いつまで過去の栄光にすがっているんだ。
「おっしゃるとおりです。かつての栄華は失われつつあります。しかし、我々にはまだ希望があると信じています」
「その希望とは何でしょうか。具体的にお聞かせください」
「我々は新たな取り組みを始めています。例えば、地元の職人たちの技術を活かした特産品の開発です。バンテンの伝統工芸を今の需要に合わせて振興し、付加価値の高い商品を生み出そうとしています」
なるほど、と純正はいったん相づちをうって受け止めた後、ゆっくりしっかり反論する。
「どのような特産品でいつまでに新たにし、どんな付加価値をつけて、どれほどの量をいくらで、どこに売るのですか?」
漠然としているものは具体化しなければ実現しない。タラレバは論外なのだ。
「その間コショウ商人はどうするのですか? 関連する業者は? 農場の使用人は? 要するに今回の暴動に加わった不平不満のある民衆を、どのように食わせていくのですか?」
純正はあえて『食わせる』と言った。直接的な方がはっきりと意志が伝わると考えたからだ。純正の声は大声ではなかったが、大広間に響き渡った。
「確かに、具体的な計画はまだ詰め切れていません。しかし、我々は新たな市場の開拓も進めています。特に、最近バンテンに来航し始めたオランダ商人たちとの取引に期待しています」
「いや、ですから困窮する民をどうやって食わせるのですか? 取引に期待してそれが現実になるまで、何年かかるのでしょうか? ならないかもしれない」
にぶいな、と純正は思った。
この期に及んでバンテンが単独で経済の自立を図れるわけがない。どうやるのだ? 周囲の国々のほぼすべてが肥前国とポルトガルの影響下にあるのに、無理な話である。
「バンテン殿、いっそのこと、朝鮮や琉球と同じように、わが国の冊封を受けられますか? そちらの方が手っ取り早いし国民も苦しまずにすむでしょう」
「……陛下、ご提案は大変ありがたく存じます。しかし、バンテン王国の独立と誇りは、我々にとって何よりも大切なものです。簡単に手放すことはできません」
純正は静かにうなずいた。
「理解します。しかし朝鮮や琉球は自治権のある独立国ですぞ。無論制約はあるが、それでも国としての国体は保っている。……では、バンテンの独立を維持しつつ、どのように現状を打開するおつもりですか?」
「……」
ムハンマドは答える事ができなかった。
「わかりました。ではお好きになさるがよい。こちらも行きすぎた商人は罰するが、他はなにもしない。困った事があれば、相談にのります。ただし、このような事故が再び起きたなら、その時は終わりですぞ」
純正はニッコリ笑って笑顔でサジを投げた。
いずれ困窮して連絡してくるだろうと思ったのだ。
次回予告 第824話 『再び、スペインと』
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