慶応元年四月七日(1865/5/1)
――最愛のメアリーへ
この手紙を書いている今も、僕の心は混乱と怒りで煮えくり返っているよ。メアリー、僕らはだまされていたんだ。
今、僕はYOKOHAMAで捕虜として収容されている。
KAGOSHIMAでの戦闘のあと捕まったんだ。でもここに来て、想像していたよりもずっと穏やかに過ごせている。
日本人は僕たち捕虜を丁重に扱ってくれて、食事も十分だし、清潔な寝床も与えられているからね。散歩や外出も許可されているし、ある程度の自由もあるんだ。
でもそんな中であの生麦事件の真相を知って、さらに大きな衝撃を受けたよ。なんと、あれはイギリスの陰謀だったっていうんだ。
僕たちが戦っている理由は、でっち上げだったって。
大名行列に乱入したイギリス人の中に、オールコック前公使に雇われた無法者がいたんだ。
信じられるかい?
彼はわざと日本人を挑発して、事件を起こせと命令を受けていたんだ。
その後に上海へ逃げて、口封じのために殺されかけたんだけど、1人は死んで、もう1人は助かった。
生き残った犯人と、上海で味方から襲われた元領事館員の2人から真実を聞いたんだ。無法者の犯人だけじゃない。領事館員からも聞いたから、残念だけど、事実と認めるしかないよね。
メアリー、僕は途方に暮れている。
正義のために戦っていると思っていたのに、僕たちはだまされ、利用されていたんだ。この戦争は何のための戦争なんだ? 多くの仲間の命は、一体何のために失われたんだ?
この真実を、僕はイギリス国民に伝えなければいけない。
必ず生きて君の元へ帰り、すべてを明らかにすると誓うよ。
混乱の渦中にある君を想いつつ
ジョン――
――愛しいエミリーへ
この手紙が君の目に触れるとき、僕は君に大きな衝撃を与えてしまうかもしれない。
エミリー、許してほしい。
僕は君に、そして祖国に、嘘をついていたんだ。
今、僕は捕虜としてYOKOHAMAにいる。KAGOSHIMAでの戦闘で捕まったんだ。
でも、ここで僕は、僕たちが戦っている理由が偽りだったこと、そして日本人の寛大さを知った。
日本人は僕たち捕虜を人道的に扱ってくれている。
食事は十分に支給されて清潔な環境で生活できているし、散歩や外出も許可されているんだ。こんな状況でさえ、僕たちは敬意を持って扱われている。
でもそんなとき、生麦事件の真相を知ったんだ。
あれはイギリスの陰謀で、前駐日公使オールコックが仕組んだんだって。
日本人行列を襲った犯人は彼に雇われた男で、彼らはその後上海へ逃亡して、口封じのために殺されかけたらしい。
生き残った犯人から、すべての真実を聞いたんだ。パークス領事も一枚かんでいたらしい。
エミリー、僕は言葉を失ったよ。
多くの仲間たちが、嘘の大義のために命を落としたんだ。この戦争は、一体何のための戦争なんだ?
この真実を、必ずイギリス国民に伝えなければいけない。
生きて君の元へ帰り、すべてを明らかにすると誓うよ。
君を想い、苦悩する
ホレイショ――
「Missエミリー、日本の捕虜となっている恋人から手紙がきたのは本当ですか?」
「Missメアリー、意外にも日本の捕虜待遇は人道的であると聞きましたが、手紙にはなんと?」
いまやイギリス各地で同じ現象が起きていた。
全国に散らばっている捕虜の家族や恋人へ手紙が届いたのだ。第三国であるフランスやオランダ経由である。
■グラスゴー
「はい、本当です」
タイムズ紙の記者の質問に対してエミリーは短く答えるが、その目には複雑な感情が宿っていた。
「手紙は私的な内容ですので詳細は控えたいと思います」
エミリーの言葉が記者たちの興味をさらに高めたようだ。
「捕虜の待遇や健康状態は? 何か情報はありませんか?」
エミリーは一瞬ためらったが、やがて口を開く。
「手紙によると、予想以上に人道的な扱いを受けているようです。十分な食事と清潔な環境が与えられ、ある程度の自由も許されているようです」
記者たちは驚きの声を上げてペンを走らせた。エミリーの言葉が、これまでの日本人に対する一般的な認識を覆したからだ。
「他には何かありませんでしたか? 鹿児島砲撃や下関砲撃の件、もしくは政府に対して」
記者が問いかけると、エミリーは目を閉じてゆっくりと息を整えた。
慎重に言葉を選びながら答える。
「手紙には、戦争自体がウソの大義に基づいていると書かれていました。生麦事件がイギリス側の陰謀であった可能性、特に前駐日公使オールコック氏の関与が書かれています」
記者たちは一斉にざわめき、情報の正確性を確認しようとさらに質問を浴びせた。
「それは非常に重大な告発です。政府はその真偽を調査すべきではないでしょうか?」
エミリーは記者たちの熱気を感じながらも、冷静さを保とうと努める。
「私にはその判断はできません。手紙を書いた彼自身が捕虜として直接聞いた話です。でもそれが事実なら、この戦争の意義が問われるべきだと思います」
記者たちはさらにペンを走らせ、記事の見出しにふさわしい言葉を模索している。その場の緊張感は増すばかりだった。
■カーディフ
「手紙の内容はプライベートな事なので、あまり話したくはありません。具体的にどんな事をお聞きになりたいのでしょうか」
メアリーがデイリー・テレグラフの記者の質問に答えると、他の記者たちも間髪を入れずに質問を重ねる。
「生麦事件の件です。この事件がイギリス側の陰謀であった可能性が示唆されていると聞いています。それは本当ですか?」
「手紙には驚くべき内容が書かれていました。それはオールコック前公使が無法者を雇い、日本側を挑発するよう仕向けた話です。その結果事件が起こり、それを口実に戦争へと発展した可能性があると書かれていました」
メアリーは少し間を置きながらも、|毅然《きぜん》とした口調で語り始める。
記者たちはその言葉に一斉に反応し、ペンを走らせる音が場を支配した。
「それでは、鹿児島砲撃や下関砲撃にも言及されていましたか?」
別の記者がさらに問いかけたが、メアリーは静かに首を振りながら答える。
「具体的に戦闘の詳細は書かれていません。ただし、捕虜となった後の待遇や、日本人の寛大さが多く書かれていました。日本人は捕虜である彼、いや彼らを人道的に扱い、必要な物資や自由を提供していると」
記者たちはその発言にも驚きを隠せず、さらなる質問を準備する様子だったが……。
「これ以上の詳細は差し控えます……」
メアリーはそれ以上の回答を控える意志を示し、と短く述べてその場を後にした。
■ロンドン 国会
議会では敗戦責任と講和遅延、生麦事件の新証言に関する議論が過熱していた。野党議員たちは政府に対し、事件の真相究明と戦争責任の追及を強めていく。
「首相、これをご覧ください! 日本にいる捕虜からの手紙に、生麦事件の真相に関する事が書かれていたというではありませんか? これは以前、新聞でも報道された内容と一致する。この事実をどうお考えですか? 事件をわが国が誘発し、あまつさえ戦争を仕掛けて負けた、これを国益に反する行為と言わずしてなんというのですか!」
保守党党首のエドワード・スミス=スタンリー(第14代ダービー伯爵)は鋭い|舌鋒《ぜっぽう》で退陣を迫る勢いである。議場内はざわつき、与党議員たちは困惑した様子を見せた。
「まず第一に、生麦事件に関する新たな証言の真偽を政府として慎重に調査しております。結論を出すには、さらなる時間と証拠が必要となります。そこをご理解いただきたい」
パーマストンは答弁席に立ち、冷静さを装ってはいるが表情は硬い。
『時間稼ぎだ!』野党議員からは野次が飛び交う。パーマストンはそれを無視し、続けた。
「しかしながら、このような証言が国民感情を揺るがしていることは認識しております。よって、特別調査委員会を設置し、この問題の全容解明に努める所存です」
「いつまでやっているのですか! 生麦事件の調査はいつから始まったのですか? いいですか首相! あなたは2年前の1863年3月24日に、こう答弁している」
『既に調査を行うよう指示を出しておりますが、誓って生麦事件は日本側の責任であり、わが国は正当な要求をしているに過ぎないと断言できます。その上でもし、日本が要求を|呑《の》まないのなら、外交上の措置を取らざるを得ないと考えます』
「いいですか? この議場にいらっしゃる皆さん、あれからなにか、政府から具体的な声明はありましたか? まるで世論が冷めるのを待っているかのように、何も発表がないではありませんか? そうこうしているうちに開戦してしまった。しかも負けたのです!」
ダービーの追及はいよいよ鋭く、誰の目にもパーマストンが劣勢なのは明らかであった。
■バッキンガム宮殿
「随分と体調が優れないようですが、首相……健康なのが1番です。そろそろゆっくり休養なさってはいかが?」
椅子に座り、下を向いて紅茶を一口飲んで、対面しているパーマストンを見ながら女王は静かに言った。
パーマストンは女王の言葉に顔を上げ、疲れの色が濃い表情で応じる。
「陛下のご配慮に感謝いたします。しかし、この国難の時期に休養を取るわけにはまいりません」
その声はかすかに震えていた。女王は紅茶を置き、真剣な面持ちでパーマストンを見つめる。
「生麦事件について、真相と言われることの信憑性を高める報告ばかりが入り、調査は遅々として進まない……。賛成多数とはいえ強引に押し切った感が否めない戦争で敗れ、賠償金の請求もあるというではありませんか。このままズルズルと政権にしがみついても、あなたにとっても国にとっても、良いことなど1つもない。違いますか?」
女王はいたって冷静であった。
苦渋の決断であり、許されざる事ではあるが、認めるべきは認め、さっさと次に進むべきだと考えているのだ。
「陛下のお言葉、痛み入ります。確かに、この状況は私の責任です。しかし生麦事件は……」
女王は静かに首を振り、パーマストンの言葉を遮った。
「首相、もはや言い訳は通用しません。捕虜からの手紙が各地に届き、国民の間で動揺が広がっています。議会でも追及が激しさを増しています。このままでは政府への、国への信頼が完全に失われてしまいます」
「……」
「……」
「陛下、ご指摘の通りです。私の判断の誤りが、この事態を招いてしまいました。辞任を含め、今後の対応を検討いたします」
パーマストンは連日の議会での答弁で身も心も疲弊し、女王の提言を跳ね返す意欲はすでになくなっていた。それほど衰弱していたのだろう。
「首相、あなたの長年の奉仕に感謝いたします。しかし、この国と国民のために、新たな指導者が必要な時期が来たのです。内閣の総辞職を含め、速やかに対応してください」
パーマストンは女王の言葉を受け止め、静かに頭を下げた。
次回予告 第353話 『総辞職と証人喚問』
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