慶長元年三月二十三日(1596/4/20) メキシコシティ(テノチティトラン)
はいそうですか、と素直に信じるわけにはいかなかった。
自分の先祖、母なるアステカを滅ぼしたスペインが負けたなど、簡単には信じられなかったからである。
その男が言うには、スペインは海戦で2回も敗れ、西の島々からは完全に撤退したらしい。その証拠にヌエバエスパーニャの港はもちろん、アカプルコにさえ大がかりな艦隊は存在しない。
本国であるスペインはイングランドに敗れ、国力は衰退しているそうだ。
「トラロック、どう思う? 肥前国とやらの王、純正は本当に存在すると思うか? いるとすればスペインをこの地から駆逐し、我らの王国を再び起こすのを手伝うと言うが、本当だろうか」
神官の家系であるトラロック・シウコアトルに、(第15代アステカ王国皇帝の)クイトラワクは半信半疑で質問した。
「スペインはわれらを支配しています。そのため自国に不利になる情報ならば、箝口令を敷いているはずです。しかし、人の口に戸は立てられません。その男が言う年に、市場や港で動きがあったのは確かなようです」
イギリスに負けたアルマダの海戦が1588年。(クイトラワク13歳)
肥前国がヌエバエスパーニャの艦隊を破った第2次フィリピン海戦が1578年。(クイトラワク3歳)
肥前国がマニラ要塞を防衛した第1次フィリピン海戦が1571年。(生前)
その際に必ず物価が高騰し、武器弾薬や甲冑など戦争に必要な物資が不足したそうである。
「ふむ、ではその男を信じてもよいと思うか? 蜂起して失敗すれば、今度こそわが一族はもちろんだが、アステカの民がさらに苦しい責め苦を負うのだ」
トラロックは周囲を警戒しながら、低い声で続ける。
「おっしゃるとおりです。それに肥前国やその王に関しての確かな情報がありません。慎重に判断する必要があるでしょう」
「わかった。もう少し様子を見よう。軽はずみな行動は控えるべきだな」
市場のほこりっぽい空気の中、クイトラワクは深く考え込んだ。遠くでスペイン兵の甲冑がきしむ音が聞こえ、二人は一瞬身を硬くする。
「賢明な判断です。情報を集め、慎重に対応しましょう」
トラロックはうなずき、商品を整理する振りをしながら答えた。
■ペルー ビルカバンバ
トゥパク・アマルの前にやってきた男は、肥前国の情報省が送り込んだ間諜であった。
その要点は軍事的な支援である。
肥前国の軍事支援を背景に、一斉に蜂起を促してクスコを制圧。その後にポトシ銀山まで制圧する流れの、大がかりな軍事作戦であった。
簡単に信じるわけにはいかず、トゥパク・アマルは男を自由に行動させたが、監視して一挙手一投足を報告させていたのだ。
「さて、どうしたら良いだろうか」
側近に問いかけたトゥパク・アマルは玉座に座り、深いため息をつく。
ビルカバンバの宮殿内は緊張感に包まれ、側近たちは主の言葉を待った。ガラスのない窓から差し込む陽光が、黄金の装飾を輝かせる。
「この男の言葉、どう思う?」
トゥパク・アマルの声は低く、慎重だった。側近のアポ・イラカが一歩前に出て答える。
「陛下、慎重に対応すべきでしょう。肥前国の存在も、その力も未知数です。スペインを倒せるほどの力があるのか、確証がありません」
トゥパク・アマルはアゴに手を当てて考え込んでいる。宮殿の壁に掛かっている先祖の肖像画が、彼を見つめているかのようだ。
「だが、もしこれが本当なら、我らの独立の機会かもしれない」
別の側近、インティ・クンティが発言する。
「アポ・イラカの言うとおり、慎重に行動すべきかと思いますが、今のままこうしていてもジリ貧です。かろうじてスペインの攻撃は防いでいますが、もし大攻勢にでたなら、いつまで抵抗できるかわかりません」
うむ、と一声うなずいてトゥパク・アマルは立ち上がり、窓際に歩み寄る。外では、インカの民が日々の暮らしを営んでいた。
「そうだな。もう少し様子を見よう。この男の言動を注意深く観察し、情報を集めるのだ。軽率な行動は慎むように」
側近たちはうなずき、トゥパク・アマルの決定に従う。宮殿の空気が少し和らいだ。
「インティ・クンティよ、この男の監視を続けよ。少しでも怪しい動きがあれば、すぐに報告するのだ」
「ははっ」
インティ・クンティは深々と頭を下げ、命令を受け入れた。
トゥパク・アマルは再び玉座に座り、考え込む。インカ帝国の未来が、この決断にかかっているのかもしれない。彼の表情には、希望と不安が入り混じっていた。
■オレゴン 沿岸
――発 小樽鎮守府 宛 五○一探検隊司令
本国より指令あり
イスパニアとわが国は戦争状態にありといえども、むやみな打ち合い(戦闘)は避けるべし。
然れども探険を続けるべく警戒しつつ南下すべし。
すでにアンカレジに支援を大にするよう命じけり。――
「ふむ。もとよりそのつもりであったが、戦に備えつつ深くあなぐれ(探険せよ)と。ただ今(現在)はイスパニアの船団はおらぬか」
探検隊司令の近藤重蔵は副官に尋ねた。
「はっ。あれより警戒を厳となしておりましたが、それらしき船団も、陸上における兵も見受けられません」
半年前にセバスティアン・ロドリゲス・セルメーニョ率いる探険船団と遭遇して以来、別の船団は見かけない。おそらく報告をしてそのままこちらの様子をうかがっているのだろう。
そう近藤は結論づけた。
「よし、では明日より出航し南下する。よき港を見つけたら溜まり(拠点)とするよう動くが、敵の兵力がわからぬゆえ、打ち合いはせぬ。よいな」
「ははっ」
■メキシコシティ
「閣下、どうなさいますか? 本国へは探検隊の報告があってからすぐに知らせを送りましたが、いまだ返書は届いておりません。すでに半年になります。さらに防備を固めたほうが良いのではありませんか? 少なくともアカプルコとここ、首都であるメキシコシティは絶対に守らなければなりません」
副王のガスパール・デ・スニガは側近の言葉を聞きながら考えている。
「肥前国か……。遠きフィリピナスでの出来事かと思っていたが、ついにこのインディアスまでやってきたのだな」
ガスパール・デ・スニガは窓辺に立ち、メキシコシティの喧騒を見下ろした。太陽が照りつける石畳の上を、商人や修道士たちが行き交う。
「本国からの返事はあと2~3か月ほどは待たねばなるまい。早ければ陛下の文書をもった船が海を渡っていると思うが、いずれにしても時間がかかる。……いたずらに動いて民衆の不安をあおってはならない」
ガスパールは机に向かい、地図を広げた。
アカプルコからメキシコシティまでの道のりが赤い線で示されている。彼は指でその線をなぞりながら言う。
「アカプルコの防備は既に強化している。メキシコシティの防衛も重要だが、今は静観するしかあるまい」
「しかし閣下、事態は急を要しているのではないでしょうか。肥前国の軍隊は侮れません」
側近は副王の決断に困惑の色を隠せない。彼は恭しく一歩下がりながら、再び進言した。
「わかっている。だが今は慎重に行動せねばならぬ。まずは確かな情報を集めるのだ。セバスティアンに命じて船団を組ませ、肥前国の動きを探らせるのだ」
「ははっ」
次回予告 第827話 『憔悴のフェリペ2世』
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