慶応元年六月二十六日(1865/8/17) 琉球
「! ア、アーサー、君なのか! よく、よく生きていたな」
パークスは目を疑い、驚きと喜びの感情が入り混じる。
上海で巻き添えを食って死んだと思っていた領事館員のアーサーが、目の前に立っていたからだ。
アーサーはパークスから将来を嘱望されていた人材であり、信頼されて紅幇の行動を監視するよう命じられていたのだ。それがまさかこんな結果になるとは……。
アーサーの突然の登場に、会場の空気が凍りついた。パークスは言葉を失い、次の言葉が出てこない。オールコックとニールは眉をひそめてその新たな同席者を見た。
2人はアーサーとは面識がない。パークスから話は聞いていたが、被害者としてである。被害者であるアーサーが、なぜ向こう側に座っているのだ?
ドアを開けて入ってきたアーサーは、ビルの隣に座る。
「まさか、君が生きていたとは……いや、良かった! ……本当に良かった!」
本心である。
可愛がっていたアーサーの死を上海で知ったとき、パークスは張と警察署長に怒りをぶつけた過去があった。そのアーサーの生存を知って、喜びと同時に別の感情が湧き出てきたのだ。
……そのアーサーが、なぜここにいるんだ?
アーサーは冷ややかな笑みを浮かべる。
「ええ、おかげさまで生きていましたよ。紅幇の襲撃で死にそうになりましたが、日本の医師団のおかげで生き延びました。その後は横浜の治療院で治療に専念していたんです」
「なぜだ? なぜ領事館に戻らなかった?」
パークスは声を震わせた。
「……考えていたのですよ。異国のこの地で献身的に世話をしてくれる病院の人たちや、Mr.オオタワをはじめとした日本の人々のことを。まさか戦争になるとは思いませんでしたが、わが母国がこうも恥ずべき行いをしていたのかと、思い知りました」
パークスの表情が凍りつく。
アーサーの言葉は単なる生存報告ではなく、イギリスへの批判を含んでいたのだ。会場の空気が一層重くなる。
「恥ずべき行い? 何を言っているんだ、アーサー……。まあいい、君は本来、こちら側の人間だ。さ、さあこっちへ。この喚問が終わったら、イギリスへ戻ろう」
パークスは声を絞り出して言ったが、アーサーは静かに首を横に振る。
「申し訳ありません、パークス領事。私はもうイギリスには戻りません」
パークスの顔から血の気が引いていくのがわかる。オールコックとニールは互いに顔を見合わせ……てはいない。どうも3人の中で不協和音が起き、亀裂が深まっているようだ。
「何を言っているんだ、アーサー。君は我々の仲間だろう?」
パークスは必死に状況をコントロールしようとした。
アーサーはゆっくりと立ち上がり、部屋の中央に歩み出る。
「私はもはや、イギリスの外交官ではありません。今日ここに来たのは、真実を明らかにするためです」
会場がざわめき、各国の外交官たちが興奮した様子で議論を始めるが、次郎は予想どおりだと言わんばかりに笑みを浮かべている。
それがオールコックら3人にとって不気味に映らないわけがなかった。
「真実だと? 君はいったい何を言いたいのだ」
たまらずオールコックが割って入って警告した。
しかし心配はない。アーサーの家族はイギリスから出国してフランスにいる。次郎が外交筋から根回ししてフランスに出国させていたのだ。
死んだと思って葬式をあげたアーサーの両親は、生きていると知って、一も二もなく同意してくれた。
アーサーが撃たれた事実はパークスの意図とはまったく関係がない。そのためパークスの言動はいたって正常だ。大事にしていた死んだと思っていた部下が目の前にいる。
喜びの感情が噴出するのは当然だ。
しかしアーサーにとってはどうでも良かった。結果的に巻き込まれたのだ。
まっとうな外交をしていれば、こんな風にはならない。
「私は決定的な証拠を持っているわけではありません。しかし私の証言が、一石を投じるとは思います」
……一石を投じる?
場が静まりかえった。
「私は当時、パークス領事のもとで上海で領事館の職員業務をしていました。そこにニール前駐日代理公使から依頼が来たのです」
パークスではなく、ニールの顔が引きつった。
まるで余計な事は言うなよ、と言わんばかりである。
――上海 英国領事館 ハリー・パークス領事殿
緊急の事項につきご連絡申し上げます。
昨日、生麦村で発生した事件において発砲した英国人2名が、上海へ逃亡したとの情報を得ました。
つきましては2人の所在確認と身柄の確保、並びに適切な処置にご協力いただきたいと考えています。
生麦事件は重大な外交問題に発展する可能性があり、速やかな対応が必要です。
無論、事件の真相究明は重要であり、しかるべき手続きを経て、しかるべき処置が急務でしょう。まずは英国人2人の身柄を確保し、適切に処置しなければなりません。
領事のご尽力はこの難しい状況を乗り越える上で非常に重要となるでしょう。
1862年9月5日
エドワード・セント・ジョン・ニール
駐日英国代理公使――
「パークス領事、あの時あなたも首をかしげていたではありませんか。なぜ英国人の仕業だとわかるのだ、と」
次回予告 第357話 『アーサーの告白と英国外交文書』
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