慶長元年十一月十四日(1597/1/2)肥前国彼杵郡 佐世保湊
『失礼いたします! こおおおおぉぉぉぉぉぉぉのおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおお馬鹿者があああああ!』
「そんな感じで殿下の前で、自分の息子を力いっぱいぶん殴ったのよ」
「へえ……それで殿下はどうなさったのですか?」
「ああ、その当時は……永禄八年じゃったか、九年じゃったか……。とにかく三十年前はまだ肥前を統べる前で、殿下も十六歳の若君じゃったから、松浦の爺さんの剣幕に驚いておったわ」
「なるほど……」
その昔純正に褒美をもらった五十代の男性が、とある居酒屋で見かけない旅人風の男と話している。
「その戦は、殿下から仕掛けていったのですか?」
「馬鹿なことを。敵は龍造寺、龍造寺と言えば肥前国、いや今の肥前じゃねえよ。その肥前の国の中では最も勢いがあったんじゃ。まとまって戦わねばのみ込まれる、そんな有り様だったのよ。守るための戦よ」
「ほほう……」
■筑前の国 博多湊
貿易港博多を抱える博多の町は、今日も大勢の旅人や港湾労働者、商人たちで賑わっていた。
昔話に花を咲かせる老人と、意気投合して話を聞く旅人がいる。
「いやあ、驚いたのなんのって。野芥村の徳栄寺に集まったのは筑前のそうそうたる国人衆。それが一堂に会して殿下の仲介を受けていたんだから。まだ殿下は各地の国人や大名と同盟は結んでいたが、龍造寺を降したとは言え、肥前一国も統べていなかった……」
純正は当時十八歳。
「それは何のための会合だったのですか?」
「毛利の援護で大友に離反した国人衆を集めていたんじゃが、和睦を当て所(目的)にした談合(会談)じゃ。あげく(結局)毛利の助力は期待できず、このままじゃ先は見えておった」
「それで、いかなる旨(どんな内容)で和睦をしたのですか?」
「うん、わしもつぶさには知らぬが……」
一つ、下記の五つより選ぶとする。
一つ、今のままの独立を一年間維持。ただしその後はあずかり知らぬこと。
二つ、小佐々の傘下として、領内を統治する。(今までの国衆制度)
三つ、領主ではなく代官として領内を統治。俸禄は相談により固定と出来高。
家臣は小佐々の直参となる。
四つ、領主ではなく代官として領内を統治。現在の家族、家臣の所領は安堵。
所領の石高は相談により決定。出来高の俸禄は三より割合が少ない。
五つ、四公六民とし、今の石高を一貫二石と換算して俸祿を支給。
附則
一つ、大友直轄地の早良郡は小佐々領とし、博多の帆別銭を優遇する。
一つ、一以外は小佐々の庇護を受けられる。
一つ、二以外は賦役はない。
「これがその砌(時)の殿下の提案じゃ」
「これは、小佐々の傘下にはいれ、という旨ではありませんか? すでに所領を増やそうとの野心があったのでは?」
「違う。これはやがて来るであろう大友への恐れ(脅威)を防ぐためじゃ。大友へは前もって筑前の騒乱を鎮めたならば、あとはあずかり知らぬと、言質とともに起請文を得ていた」
「つまり自衛のためで、野心はなかったと?」
「そのとおりじゃ。さあ、お主も飲むがいい」
佐世保、諫早、博多、土佐、讃岐、大阪、京都……。
昔話に花咲く居酒屋での光景が、全国津々浦々で見られた。
まるで純正の30年の歴史をたどっているかのように。
■満州国首都 へトゥアラ
「満州国王におかれましてはご機嫌麗しく……」
「肥前国王におかれましてはご壮健にて大変喜ばしく……」
満州国王ヌルハチと肥前国王小佐々純正は、満州国の首都ヘトゥアラの宮殿内にある謁見の間で再び相対した。壁には肥前国製の時計が掛けてあったが、これは数年前の純正からヌルハチへの贈答品である。
女真族は日時計や水時計、さらには自然現象を組み合わせて時間を把握していたので、明確に基準となる時間の単位がなかった。
そのため純正は、肥前国で使われている壁掛けの時計をそのまま贈ったのだ。
昼間だったので点灯はされていなかったが、天井にはガラス製の吊灯(シャンデリア)が設置されている。また、これも点されてはいなかったが、鯨油製のロウソクを用いた燭台がいくつもあった。
これらの品々は満州国王であるヌルハチの権威の象徴であり、諸部族を従える意味も大いにあったのだ。
「さあ、肥前王である平九郎殿と余は対等である。ここでは堅苦しい、さあ、場所を変えようではないか」
前回のウラジオストクでの天正十六(十五)年八月二十九日(1587/10/1)の会談で、純正は平九郎と呼ぶことを許した。ヌルハチも尊称ではなくヌルハチと呼ばせたのだ。
両者はにこやかに接しているが、その胸中は明らかである。
「確か……馬乳酒は苦手でしたかな? おい、茶を用意しろ」
「どうぞお構いなく。さて、それがしの用件はお分かりでしょう?」
純正はヌルハチの茶の誘いを断るでもなく、笑顔で言った。
現段階でヌルハチは、つまり満州国は敵国ではない。同盟とまではいかないが、盛んに交易する友好国だ。対明国で利害が一致し、明を圧迫するために女真統一に協力する名目で援助してきた。
少なくとも表向きは。
しかし今後数年もしないうちに全女真を統一して、後金を建国するだろう。
後金(清の前身)は明国に取って代わった大陸の統一王朝であり、そうなれば肥前国とは相容れない思想の国家たりうるのだ。
危険の芽は摘んでおかなければならない。
「茶を用意しろと言ったが、平九郎殿はそれよりも先に話をしたいようだな」
ヌルハチの声が宮殿に響き渡った。
窓から差し込む陽光が、床に敷かれた毛皮を際立たせている。肥前国製の壁時計が刻む規則的な音が、緊張を数値化するかのようであった。
「豆満江河口の砦のことでございます」
純正は黒漆の茶碗を手に取り、湯気の立つ茶をすすりながら応じた。
ヌルハチは持ってこさせた羊皮紙の地図をなでる。
「余の兵は上流と河口の村々、途中も含めてだが、交易路を築き、その防衛のため砦を築いた。平九郎殿が懸念する軍事的意図などない」
豆満江流域に描かれた赤い印が、満州国の砦の場所を示している。
「なるほど。しかしそれがために対岸の朝鮮の民は恐れおののき、いつ襲われるやもしれぬと眠れぬ日々を過ごしておるのです」
「これは失礼した! ならば取り急ぎそれぞれの対岸の村々に使者を遣わし、襲う意図などないと知らせましょう」
しらじらしい、の一言である。
そう感じた純正の思いとは裏腹に、飄々と語るヌルハチの言動からはまったく悪意が感じられなかった。あくまで不慮の事態という立場を崩そうとはしないのだ。
「それはお願いいたします。こちらからもそう説明しますが、あくまで領土的な野心はないと?」
「野心? おかしなことをおっしゃる。そもそも貴国の領土ではないでしょう? 豆満江以西は朝鮮の領土であり、以東はわれらの領土と考えている。確かにサハリンの西の奴児干(ヌルガン)より南、ウラジオストクまでは貴国領との取り決めであった。しかしそこから南は明らかなる約を交わしていない」
確かに、沿海州と呼ばれるウラジオストクから北、樺太の対岸辺りまでは前回の交渉で肥前国が得ている。純正としてもウラジオストクの確保と安全保障の観点から、以南には言及していなかったのだ。
「確かに、それはそのとおりです。ではあなたは、どこまでが満州国の領土だとおっしゃるのか」
「……それはこれから協議しないといけないでしょう。古来、川をもとにして境が決まることは多くありました。ですから東岸はわが領土としても、なんら問題はないでしょう? それとも肥前国領だとする道理でもありますか? 朝鮮族とわれらは古来戦ってまいりましたが、川の向こうは敵地という思いは古くよりありましたぞ。逆もまた同じです」
「……」
純正の問いにヌルハチは即答し、純正にとって答えにくい質問を投げかけた。
前回とはまったく違った状況で会談が進みそうである。
次回予告 第833話 『遼東では足りぬのか、沿海州では足りぬのか』
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