慶応元年九月十四日(1865/11/2)
冬の勢いが強まろうとしている中、次郎は箱館へいく準備を進めていた。
今日までかなりの数の電信がきたが、そもそも仮病である。感謝の念とあわせて『心配ご無用』と電文を返信し、一週間ほどずる休みして英気を養った。
まだストーブは出していないが、朝晩は寒い。
それに暖房よりも、コーヒーを飲むたびに侍女を呼ぶのが面倒くさいので、お湯を沸かしてコーヒーやお茶を飲みたいからだ。
「おい、いるか?」
いきなり次郎の部屋に入ってきたのは、やはり信之介である。
あのなあ、信之介。いいかげんノックするか声かけろよ。幼馴染だからってなんでもありじゃないんだぞ。プライベートってもんがあるんだからな。
「おい、信之介いい加減に……」
次郎の言葉を遮って信之介が言った。
「やっと休んだと思ったら、また蝦夷地かよ。お前はもう一生分は活躍しているのにな。……まあ、そんなお前に朗報だ。報告書はあげていたけど、お前ぜんっぜん見にこなかったからな」
?
いったい何だ?
「研究していた無煙火薬と電話、それからプロトタイプを改良して内燃エンジンが実用化したぞ。ふっふっふ~自動車だぜ。蒸気自動車は100年近い歴史があるけど、内燃は世界初だぞ。ああそれから、計算機の開発も進めていてだな……」
「なんだって?」
次郎は耳を疑った。
「いきなり同時にできたのか?」
「……同時じゃねえよ。まったく。だから毎回報告書あげていただろ。オレがいま、一緒に言っているだけ。とにかく本当なら現場まで見てもらいたいけど、行くんだろ? 戻ってきてからでいいよ」
「すまない、信之介。本当に忙しくて、報告書に目を通す時間がなかったんだ。でもこれはすっごい成果だな」
次郎は自分の不注意を恥じ入った。
「その通りだ! わはははは! オレはいいけど、みんなへの声がけや報奨金は忘れないでくれよ。金がすべてじゃないけど、やっぱり目に見える物は大事だからな」
無煙火薬、電話、内燃エンジン、そして計算機。
信之介の言葉に心躍る次郎であったが、日英戦争の祝賀の裏では兵士以外の活躍もあったのだ。次郎は改めて、今後はこまめにチェックしようと心に決めた。
これらの技術革新は日本の近代化を大きく前進させる可能性を秘めているのだ。
■箱館 ロシア領事館
「はじめまして、ではありませんな。Mr.太田和。琉球でのディール、見事でした。今回はお手柔らかにお願いします」
「とんでもないことです。こちらこそ、よろしくお願いします」
次郎の語学力は日本語>英語>オランダ語>その他の言語である。
したがって次郎の横には外国奉行の村垣範正とロシア語通訳がいるが、そろそろ誰かに代わってほしいと考えていた。これが終われば、一段落と考えてのことだ。
楽隠居……。
信之介の言葉が次郎の脳裏をよぎる。
「ではまず、これまでの経緯は省きましょう。現時点では本国政府の意向として、貴国に売却すると決定しております」
駐日ロシア領事のエヴゲーニイ・ビュツォフが切り出す。
もともとイギリスの脅威から極東を守るため、売却はイギリスではなくアメリカを検討していた。しかし南北戦争の影響もあってまったく進んでいなかったのだ。
そこに日本からの購入の打診があった。財政難の現状を考えると、売却はなるべく早く実現したいのが本音である。
日英戦争では日本が勝利した。イギリスとは講和を結んだが国交は回復していない。
これでブリティッシュ・コロンビアからのイギリスの脅威を排除、そして財政難を改善できる。ロシアにとってはまたとない話であった。
「ありがとうございます。貴国の決断に感謝します」
「では、貴国に問題がなければ、具体的な金額や支払い方法などをつめていきたいと思いますが、よろしいですか」
「ええ」
交渉が始まった。
「ではこちらの希望金額ですが……」
ビュツォフは控えてあった書類に目を通し、確認してから続ける。
「帝国が領有しているアラスカ全土、それに以前要望のあったベーリング海に浮かぶアリューシャンの島々、アッツ島までを含みます。これで、105万ポンド(525万USドル)でいかがでしょうか」
ん?
確か売却金額は720万ドル(約144万ポンド)だったはずだ。なんで安いんだ?
……あ! 最初の提示金額は……最初ロシアはその金額を提示していたんだった。
オレは思い出した。
それから交渉の段階ではアメリカ国内に反対派がいたんだよな……。アメリカが早く交渉をまとめたかったって説もある。それをロシアが利用した?
どっちにしても40万ポンド(約200万ドル)も安い。
安く買えるなら、1円でも(いや、両? ポンド? ドル?)安いほうがいいに決まっている。
でも即決でYesといってもいいのだろうか?
それに領土となれば、国の物だ。いまさらだけど大村藩の所領じゃない。
蝦夷地の場合、名目上は松前藩の所領で事実上は松前/大村(警備や開拓権益等々)。
樺太は一応日本の領土になっているが、防衛は同じく大村藩と松前藩がやっている。これも事実上は松前/大村藩領。
でもアラスカはまぎれもなく日本の領土になる。どの権益がどうなって、誰が運営して警備がどうこうは国内問題であって、ロシアにはまったく関係がないのだ。
だからビュツォフは、当然だがオレを日本の代表とみている。
じゃあ、安いに越したことはない。
幕府の財政は火の車なんだ。後々十分すぎるほど利益がでると分かっていても、誰が理解できるだろうか? その幕閣に大枚はたいて不毛の地であるアラスカ購入を納得させなくちゃならない。
最悪、大村藩の単独購入か?
今度こそ本当(前回は日英戦争協力のためのブラフと幕閣に説明)にアラスカ購入議論が発生するぞ。
「承知しました。私としてはまったく異存はありませんが、江戸に戻って精査して正式に回答したいと思います。ただ、よほどのことがない限り、破談にはなりませんのでご安心ください。1~2か月後には締結できるでしょう」
「結構です。お待ちしています」
ビュツォフは満面の笑みで答えた。
提示金額そのままで売却できることに対しての安堵感からだろう。フィクサー・タフネゴシエイター次郎との交渉で、大幅な値引きを要求されると思ったのだ。
次回予告 第364話 『幕閣のアラスカ購入論議とロッシュ』

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