慶応元年十一月二日(1865/12/19) 江戸城 御用部屋
「やれやれ、朝廷にも困りましたな」
「然様、いかに公儀の力を強めるための公武合体とはいえ、いささか度が過ぎるのではありませぬか?」
「然りとてこたびの英国との戦に際して、丹後守殿(大村純顕)と蔵人(次郎左衛門)殿の昇進は相応の功ありとして、否めぬであろう?」
「然様、然れども丹後守殿の従三位、蔵人殿の従五位下の昇進は前例がありませぬ。三位と言えば公卿、加賀の前田殿(前田斉泰)も心穏やかではありますまい。くわえてわれらの誰より上位になりまする。大老院にしても老中院にしても、あたら混乱を生み、仲を違えますぞ」
「三位ならばすでに加賀殿がいらっしゃるではありませぬか。いまさら一人増えたとて、なんの障りがありましょう。蔵人殿であれば、すでにわれらと大いに談合し、国の行く末を論じてきたではありませんか。いまさら五位だの六位だの、然様に仰せでは国事を論ぜませぬ」
さまざまな意見が飛び交う江戸城の御用部屋で、筆頭老中の久世広周を含めた老中院の面々は、大老の安藤信正を交えて合議している。
三位の前田斉泰を格下の老中たちが『殿』と呼んでいるのは斉泰が外様であり、お互いを『殿』と呼び合うことが、五大老による大老院設置の条件でもあったからだ。
矛盾とジレンマをはらんだ議論が続く。
内藤信親は病気のために引退し、本田忠民も隠居していた。その代わりに井上正直、阿部正外、稲葉正邦、松平康英の四名が加わっている。新たな老中院を板倉勝静、水野忠精とともに七名で構成していたのだ。
「玄蕃頭(牧野忠恭・越後長岡藩主)殿はやはり出仕なさりませぬか」
「どうも家老の河合(継之助)と申す者が反対しておるようで、所司代の辞任もその者が建言したとか」
「まったく、陪臣は天下国家のことなど考えておらんのか」
「松前殿(松前崇広・松前藩主)はいかがか? 彼の者であれば、その……大村家中と親しい。我らが懐に入れてしまえば、丹後守殿もより公儀への忠誠を誓うのではなかろうか」
「丹後守殿よりも、次郎左衛門殿にございましょう。彼の者、確かに傑物であるのは認めまする。然りながら……」
「各々方、いろいろと思うところはありましょうが、いまは蔵人殿がロシアに持ちかけた『あらすか』を買うか買わぬかの儀にございましょう。横道にそれておりますが、まずはそれを論じようではないか」
筆頭大老の安藤信正の言葉に、他の老中たちもそれぞれのおもわくを胸に秘めつつ、静かに耳を傾けた。場の緊張感は高まり、重苦しい空気が部屋を支配している。
「然様、蔵人殿がロシアに持ちかけたアラスカを買う話にござる」
筆頭老中の久世広周が、再度全員に向けて発言した。安藤信正とは安藤・久世体制で長らく幕政を仕切っている。
「この儀、いかに考えればよいのか。各々方の考えを聞かせていただきたい」
前もってアラスカ購入の話は知らされていて、新参の老中以外は知っていた。
しかしその老中はもちろん、筆頭大老の信正にも金額や目的、その他の利権についてはまったく知らされていなかったのだ。
「もっとも重きはその値ではございませぬか」
先任老中の水野忠精が問いかけた。
「いかに蔵人殿の考えとは言え、いまの公儀には無駄な金を出す余裕はござらん。いかに借銭を減らし、歳入を増やすかで四苦八苦しておるのです。確かにこたびの戦、大村家中の持ち出しが多く、お世辞にも公儀が主に導いたとは言い難い。然りとて戦前のロシアとの公約を必ず守らねばならぬ道理もござらん。あの砌(時)も、しかと約するものではなかったはずです」
あの砌、とは日英開戦前の評議で、ロシアの協力を得るための方便(?)を使うと決定したことを言っているのだ。
「無駄な金、か……。水野殿の言、もっともだ」
久世広周が水野忠精の言葉を受け、静かに同意する。幕府の財政は逼迫していた。長州征伐は行われていないが、潤沢な資金などなかったのだ。アラスカという未知の土地に、どれほどの価値があるのか。
買うとしても借金しなければならない。
「然れど彼の地は蝦夷地よりもはるかに広大であると聞き及んでおります。加えて海の幸や山の幸、まだ見ぬ資源が眠っているやもしれませぬ」
井上正直が反論し、阿部正外が同意した。財政難を脱却するために新たな収入源が必要なのは確かである。
「もし真に豊かな幸があるならば、この先の公儀の財政を立て直す上で大きな助けとなるだろう」
「各々方」
稲葉正邦が付け加えた。
「仮にも公儀の行く末を決める合議で、そのために集まった老中としての言に、タラレバはありえぬでしょう」
まさにタラレバである。
未来人(この時代の)である次郎たちなら知っているアラスカの事情を、知るわけがない。だからこの反応は正常なのだ。ありもしない、あるかわからないものに、金はかけられない。
「申し上げます! ただいま横浜より電文あり、蔵人様が参府するとの由にございます」
小姓から連絡を受けた面々は、きたか、と一瞬黙り込んで到着を持った。
「では蔵人殿、ロシアとの談合のいきさつをお教え願おうか」
全員にあいさつをすませた次郎は、信正の問いに対して答える。
「はい、殊の外ロシアも財政が苦しいようで、それがしの考えていた額よりもさらに安く申し出て参りました」
「して、いかほどであろうか」
信正を始め他の老中も、その広さや価値、金額すらもわからない。まるで未知なのだ。
「はい、しめて105万ポンド(525万USドル)でございました」
次郎はそのままの金額を、正直に伝えた。ここでウソやごまかしをしたところで意味がない。どうせ後からバレるのだ。
「……それは、つまり、何両だ」
幕閣の一人がつぶやいた。
わざわざ外国の通貨でいわなくても両で言えよ、と言わんばかりだが、悪意があるわけではない。単純にそう思って口に出ただけである。
「失礼、おおよそ二百六十三万両でございます」
バカな!
あり得ん!
まさか!
無理だ!
さまざまな声が聞こえる。全員がうすうす予測はしていたのだろうが、改めて聞くと信じられない金額であった。
幕府財政の歳入の2年ないし3年分の金額である。江戸の町屋敷の坪単価が4両だが、広さの前に金額で仰天してしまった。
「無理……無用である、な」
安藤信正が、ざわめきが落ち着いたころに全員を見て言った。
次回予告 第365話 『無理か可能か、有益か無益か』

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