第846話 『哱拝(ぼはい)の死』

 慶長三年一月二十七日(西暦1598年3月4日) 寧夏

 寧夏城の居室で、哱拝は苦しそうな呼吸を繰り返していた。布団の上で横たわる彼の顔は蒼白で、額には大粒の汗が浮かんでいる。

「父上、お薬を」

 長男の哱承恩が差し出す薬を、哱拝は手を震わせながら受け取った。しかし、それを口に運ぶ前に激しい咳込みが起こり、薬は床にこぼれ落ちてしまう。

「申し訳ありません。すぐに新しいものを」

「いや、もういい」

 哱拝は弱々しく手を振る。

 その目は部屋の隅に置かれた地図に向けられていた。視線の先には、寧夏を中心に広がる領土が描かれていた。

 大同、宣府、開平衛まで。わずか数年で築き上げた新しい王国の姿だ。

「承恩よ」

「はい」

「肥前国との関係を大切にするのだ。あの国には及ばぬ。敵に回さぬことだ。女真との友好も忘れるな」

 承恩は父の言葉の重みを噛みしめるように黙って頷いた。

「明とは、敵ではあるが……外に領土を求めてはならぬぞ。わしは明と伍するために領土を広げた。しかしこれ以上は必要なかろう。よいか、外に目を向けるのではなく、肥前国と結びつきを強め、内に力を蓄えるのだ……」

「はい」

 言葉の途中で、哱拝の呼吸が止まった。

 承恩は慌てて父の手を取るが、すでにその手から温もりは失われつつあった。

 寧夏の建国者、哱拝の死である。

 寧夏の人々は、彼のことを「開国の英主」と呼んで惜しんだという。




 ■ヘトゥアラ

「何? 哱拝が死んだと? そうか……」

 ヌルハチは目をつむり、腕を組んで考えている。

 これから先、どうすべきか。

 大陸の覇権を握るため、明国を攻めるのは決まっている。問題はその方法と手順であった。

 海路渤海湾を渡って登州へ渡り、周辺を制圧しつつ北京を目指すか。あるいは陸路遼河を越えて、明との一戦の前に寧夏と戦うか。

 どちらも一長一短であった。 

「ハーンよ、どういたしますか?」

 ヌルハチの腹心の一人で、肥前国に交渉に赴いたグヮルギャ氏フュンドンである。

 前回の交渉における肥前国からの返事は、女真の統一には軍事的援助はするが、明に対しては援助はしない。ただし交易は変わりなく行うというものであった。

「今我らと利害が一致しているのは肥前国だけ。しかし明との戦いには援助はないということか」

「は、そのため攻め入れず、遼河を挟んで西は寧夏の領土となりました」

「うむ」

 ヌルハチは唇をかみ、窓の外に広がる城下を見つめた。その眼差しには、複雑な思いが宿っていた。

「フュンドン、肥前国の純正は、なぜ明への攻撃を支援しないと言った?」

「はい。純正は『大陸の分断は望まない』……いえ、『あまり関わりたくない』と」

 フュンドンは言葉を選びながら続けた。

「ふっ。くくくくく……。フュンドンよ、あの男が、本当にそう言ったのか?」

「いえ、それは……」

「いらぬ忖度はせんでいい。報告は受けたが、奥歯に物が詰まったような物言いであったからな。直言が取り柄のお前らしくもない。おおよその中身は予想できたおった」

 ヌルハチは目を細め、続ける。

「あの男の狙いは、いかに自国の利になる相手と組むかに他ならん。肥前国は強大で中華全土を敵に回したとしても、そうそう負けはせぬだろう。しかしそうならぬよう、明を弱めて力の均衡を保とうとしておるのだ」

  ヌルハチは立ち上がって目の前にいらなぶ家臣の前で地図を軽く叩いた。脇にあった棒で肥前国と満州国、明を指す。

「海路しかなかろう。皆の中に大義名分などと言う者はおらんだろうな? わしは祖父と父を奸計によって明に殺され、その恨みはわが一族末代まで消えはせぬ。明が幾度われらの領土を侵した? 和議と不可侵を破ってだ。今ここに独立を認められたとして、それが何の保障になろうか」

 さらヌルハチが長机をたたくと、おおおおお! という同意の声があがった。

「肥前国を敵に回してはならん以上、明への進軍は慎重にせねばなるまい。渤海の西には天津があるからな。純正にいらぬ警戒を抱かせてはならん。ただし、真に中華の分割を望むなら、我らが明へ攻め込むことを容認するだろう。もう一度肥前国へ使者を送るのだ。不干渉の言質をとれ」

「ははっ」

 ヌルハチは机上の地図に目を落とした。遼河から北京までの距離、そして寧夏の位置関係が詳細に記されている。

「ハーンよ、寧夏の混乱に乗じるのであれば…….」

「いや」

 ヌルハチは即座に遮った。

「寧夏を攻めれば、肥前国の警戒を招く。それに寧夏は明と違い怨みもなければ名分もない。我らが寧夏を滅ぼせば、そうは簡単にいかぬだろうが、それでは我らが強くなりすぎる。意味はわかるな?」

 ヌルハチは地図上で指を滑らせ、寧夏国と満州国をぐるっと円を描くようになぞった。

「まずは肥前国から言質をとった後、海路山東へ攻め入る。すでに北京は寧夏国に北と西を囲まれておる。我らが山東に来たとなれば、南進して迎え撃つしかない。一度でも敗れれば、北京は終わりよ。皇帝は逃げるしかなくなるわ」

 ヌルハチの明侵攻作戦が始まろうとしていた。




 ■肥前国 諫早

「ほう、哱拝が死んだか……。一代の英雄の死よな。さて、いかが致そうか」

 純正が考えていると、居室に直茂と官兵衛が入ってきた。

「殿下、哱拝が死んだようです」

「うむ、ゆえにいかにすべきか考えておったのだ。哱承恩とヌルハチはいかに動くかのう」」

「ヌルハチと哱承恩、両者の思惑は異なるでしょう」

 直茂が言葉を継いだ。

 還暦を迎え、肥前の張良と呼ばれる建国の功臣の眼光は衰えてはいない。

「ヌルハチは明への恨みが深い。一方の哱承恩は、父の遺志を継ぎ、現状維持を望むでしょう」

「うむ。されどそうならぬよう、密偵を送って調略しておるのではなかったか?」

「哱承恩に取り入るようにはしておりますが、いかんせん大義名分がありませぬ。父親である哱拝が義の人であったがために、建国成り、平和となってなぜ戦いを望むか、との声もあります」

「いかがいたす?」

「明との国境で争いを起こすよう仕向けます。然すればいかな哱承恩とて、民を守るために兵を起こさぬわけには参らぬでしょう」

「では、寧夏に支援をすべきか?」

 純正は二人に目をやり、その後瞑目したまま、しばらく考え込んでいた。

「いや、支援は……ただ今は控えねばなるまい。女真には支援せず、寧夏には支援するとなれば、ややこしいことになるからの」

「されどこのままでは、おそらくヌルハチは寧夏との戦いを避け、海路山東へ向かう目算が高うございます。さらば、たちまち天津は孤立しますぞ」

 と官兵衛。

「いかがいたす?」

「そうならぬよう、寧波の第十六師団第三旅団をもって天津へ増派し、基隆の第四師団を寧波へ向かわせます。海軍は同じく基隆の第八艦隊を天津へ向かわせ警戒に当たらせればよろしいかと」

「うむ」

「いずれにしましても、ヌルハチが我が国を無視していきなり攻め入るとも思えませぬ。一度使者を遣わしてくるでしょう」

「あい分かった。良きに計らえ」

 東アジアでの戦乱の火は、収まりそうにない。




 次回予告 第847話 『ネゴシエイト』

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