第9話 『石けんとロウソクとストーブ』

 1590年3月12日 オランダ デン・ハーグ

「……さて、次は石けんだな」

 オレは市場で見かけた石けんを思い出していた。

 地中海沿岸、特にマルセイユ産は高級品として有名だが、主な原料はオリーブオイルとソーダ灰だ。

 ソーダ灰はオランダでも手に入る。問題はオリーブオイルだな。

 輸入に頼らないといけないが、原料費に輸送費が加算される。

 石けんの原料となる油脂には植物性と動物性があって、獣脂は臭いが強い。

 香料を使ってごまかせるけど、オリーブオイル由来と比べたら品質は明らかに劣るしね。

「あ!」

 オレは思わず声を上げてしまった。

 魚油を使えばいいんだ。

 オランダではニシン漁が盛んだ。ニシン1トンは60ギルダーで、そこから魚油150kgと、塩分を除いたカス700kgが採れる計算になる。

 カスは肥料として農地に還元できるし、塩漬けニシンを洗い流した塩水からは、塩を再生利用して販売できそうだ。

 こりゃあ捨てるとこなしだぞ。

 油と同じ重さの石けんができると仮定すると……1トンは約2,204ポンドだから、1ポンドあたり0.544スタイバーか。

 輸送費はフランス産の塩が輸送費込みで1スタイバーだから、これを参考にすれば……。

 オレは指を折りながら計算を続けた。

 製造原価は、油が0.544スタイバー、酸性白土(石)が0.1スタイバー、フランスからの輸送費が0.5スタイバーと考えればいいかな。

 全部合わせても1ポンドあたり1.144スタイバー。人件費はまだ不明だが、1ポンドあたりで考えれば誤差の範囲内だ。

 問題は臭いと色。魚油を精製して、臭いを取り除いて色を薄くする。その後、香りを加えれば……。

「よし、これなら行け……」

 オレは計算の途中で、ある重大な事実に気づいた。

「ちょっと待てよ」

 オレが毎日風呂に入ると言い出したとき、病気になると言ってヤンは真っ青な顔をしてやめようとした。

 !

 この時代、よーく考えたら、ヨーロッパには入浴の習慣がないじゃないか。

 石けんの需要を現代の感覚で計算していたなんて……。オレは額を押さえて苦笑してしまう。香水で臭いを消すのが一般的な時代に、石けんの大量消費が見込めるはずがない。

 じゃあ、どうする?

 オレは新たに計算を始めた。

 まず、洗濯用の需要は確実にある。

「そうか!」

 オレは急に立ち上がった。

 石けんを売るなら、まず清潔の重要性を広めないといけないんだ。病気の予防において、石けんを使った手洗いが効果的だと証明できれば……。

「医学部のある大学を作ればいい! いや、ライデン大学に新設する方が早いか」

 医学部の研究者たちが石けんの効果を実証すれば、傷の消毒や衛生管理用の需要が見込める。

 しかも、その過程で衛生に対する意識も広まっていくはずだ。

 洗濯の量や頻度はわからないが、今と同じ価格で品質が良いなら、市場を独占できるのは間違いない。安いならなおさらだ。

 確かアントウェルペン(アントワープ)の16世紀半ばの文献によると、油脂の輸入は180,518フローリン(ギルダー)で、そのうち石けんは12%を占めていた。

 つまり、21,662ギルダーが石けん代だ。

 オランダ、いや、今世はベルギーやルクセンブルク、さらには北フランスやドイツの一部も含まれている。だから人口は約300万人。

 そのうち、富裕層は2%として6万人。

 つまり、年間1人あたり1ギルダーと16スタイバーしか石けんに使っていない。輸入額だから商人の利益を入れれば、販売価格は2~3割増しになるはずだ。

 廉価版をさらに安く販売しつつ、利益を上げながら石けん文化を作るあげるか。

 噂が広まって、王侯貴族たちが欲しがるまで待とう。




「よし、石けんはうまく行くぞ。次はロウソクと……いや、ちょっと待てよ。肥前国は蒸気船でリスボンまで来ているんだろ? じゃあガス灯が実用化されていてもおかしくないな。さすがにリスボンでは見かけないけど……。まあいい、まずはロウソクだ」

 オレは違う紙に新しい計算式を書き始めた。

 ……が、しばらくしてやめた。

 なぜか?

 石けんや塩は原料や製法が違うから、大量生産が可能で差別化できるが、ロウソクはできない。

 原料は獣脂か蜜蝋みつろうで、どっちの製法も真新しくはない。大量生産したってすぐに模倣されてしまうからだ。

 ロウソクの原料は獣脂と蜜蝋だが、蜜蝋は高価で、1ポンドあたり1ギルダーと16スタイバー。一方、獣脂のロウソクは8スタイバーだ。

 石けんとロウソクの価格には相関関係がある。

 両方とも原料の獣脂が必要だからだ。

 獣脂の石けんは安いが、植物油同様に大量に生産できない。

 原料費はオリーブオイルに比べて格安だけど、獲りすぎると獣脂ロウソクの原料が不足して価格が高騰する。

 そうなれば、日常生活を圧迫するからだ。どう考えても、石けんよりもロウソクの方が必需品だからな。

 そのくせ1ポンドあたり50~60時間しか持たないから、1日6時間使ったら8日から10日。

 安い獣脂ロウソクでも、日当(@4スタイバー)の2日分に相当する。高級品になると、10日分に近い。

 獣脂のロウソクは、1か月で日当6~8日分、高級品なら30~40日分の価格だ。

 寝るのが早すぎる理由がわかった。

 いずれにしても石けんと並行して製造すれば、必需品だからロウソクの方が価格革命を起こすかもしれない。

 あとはストーブだが、オレは1月に兄貴に提案した内容を思い出す。工房に行って進捗を確認しなければならない。




「ストーブか……」

 寒い部屋の中で、オレは少し震えながら最後の計算に取り掛かった。

 兄貴にはポルトガル製のストーブを数台購入し、それを見本として国内生産をすればいいと提案していたのだ。

 問題は製造コストと燃料か……。

 オレは暖炉の前に座り、紙に数字を書き連ねた。3月とはいえ寒い。

 鉄100ポンドが6.84ギルダーで、1台に350ポンドを使うとして23.94ギルダー。鋳造費用は職人の日当が4スタイバーで、1台を作るのに何人の職人で何日かかるか……。

 泥炭は北部で採れる。運河網を利用すれば輸送費を抑制できるはずだ。南部の石炭が利用できるのは歴史が証明している。

 でも、一番の問題はコストに直結している生産体制だ。

 ポルトガルはジパング(肥前国)から得た技術を活用し、大量生産を目指している。

 それに対してオランダの職人たちは今でも一品一品を手作りで製造しているから、価格競争には勝てない。

 オレは計算を中断して、深いため息をついた。

 やっぱり、まずは砂糖と塩、それに石けんとロウソクからだな。ストーブは技術提携か、工場制手工業を確立してからにしよう。




 次回予告 第10話 『兄貴へ直談判②本格始動へ』

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