第378話 『アラスカ国境問題』

 慶応二年六月二十四日(1866年8月4日)

 慶喜と春嶽の圧力がすごい。

『説き伏せて参れ』の言葉に、次郎は思わず『ははっ』と答えたが、無為無策で交渉に臨むわけにはいかなかった。

 まずは情報収集が必要だ。

 ロシアとの交渉において、現地に居住する民間人および軍人に対して二年間の猶予を与え、本国への帰還を手配している。

 期限を設けて、自由な時期に行うわけだ。

 イギリスにあえて通知する必要はない。

 すべての準備が整った後に、『購入して日本の領土になっていますが、何か?』と言う段取りだ。

 もちろん、すべてがうまくいくとは次郎も思っていなかったが、筋道としてはそうなる。

 現時点のアラスカとイギリスの国境は、非常に曖昧だ。




 実は次郎は、致命的な間違いをギリギリのところで犯さずに済んだ。

 次郎は歴史オタクであり元海上自衛官でもあるため、戦史や兵器の歴史に精通している。日本史だけでなく、世界史の知識も豊富なのだ。

 しかし、何にでも限界はある。

 不得意な分野、いわゆる知識が曖昧な部分は当然存在するのだ。

 今回のアラスカ購入に関する国境の問題がまさにそれである。

 次郎は歴史的知識を得るための情報源として、Wikipediaをよく利用していた。

 あるあるかもしれないが、日本語の情報量と英語の情報量には雲泥の差がある。普段は日本語で情報収集していたのだが、情報が少ない場合は英語で検索していた。

 ”alaska america canada british border”

  で検索したところ”alaska boundary dispute(アラスカ国境問題)”関連のサイトがヒットした。

 夜遅く、疲れていたのかもしれない。

 面倒だったので、翻訳機能を使って覚えたのだ。

『境界はポートランド海峡と呼ばれる海峡に沿って北に延ばし、北緯56度線と交わる地点までとする。その地点からの境界は、海岸に平行する山脈の頂点をたどり、西経141度線と交わる点までとする』

『山脈の頂点が大洋から10海洋リーグ (56 km)以上の距離となる場合は海岸線の屈曲に平行な線でその境界を修正し、海岸から10海洋リーグを超えないようにする』

 これが1825年にロシアとイギリスが締結した条約の正確な訳文となる。

 しかし翻訳機能を使って訳すと、こうなるのだ。

『山の頂上が海から10海里(18.52km)以上離れていると判明した場合は、その境界線は海岸の曲がり角と平行な線によって形成され、そこから10海里を超えてはならない』

 あっぶねえ! あぶねえ!

 まじで危ねえ! 国境線が半分以下になるところだった!

 人間の記憶は曖昧なもの。

 ましてやインプットの段階で間違っていたのなら、なおさらである。

 自分の能力を過信してはいけないと猛省した次郎であった。

 しかし、もし成功すれば、史実よりも内陸部にアラスカの領土が広がるのだ。




 ロシアとの情報収集が完了し、基本的な方針が決まった。

 まず、イギリスとの交渉を始める時期だが、来年の万博終了後もしくは開催中とする。

 理由は単純だ。

 万博での技術展示は国際社会への影響力を拡大し、イギリスに対しても間接的な圧力をかける手段となる。

 セーヌ川を潜水艦で潜航と浮上を繰り返す様子は圧巻だろう。

 その後に露英条約に基づいて測量でも何でもすればいい。

 もちろん準備も忘れない。

 アラスカの国境、つまりアラスカを実質的に統治・管轄している事実を示すために、支配体制を確立しつつ強化するのだ。

 パラノフ島を要塞化し、沿岸から10海洋リーグを基準に国境標識と柱石を設置する。

 国際法上「既存領土」と認めさせる準備をすれば、イギリスも文句は言えないだろう。

 なにせ実際に支配している以上、条約の条文に従うべきだ。再測量でも何でも行えば良い。何なら共同でやっても良いいくらいだ。

 その間、金の存在は徹底的に隠する。

 軍事的な防衛拠点の構築と開発においては、居住環境の整備や国境標識の設置にとどめる必要がある。

 イギリスにアラスカの金鉱や油田、鉱山資源の存在が明らかになると、元も子もなくなってしまうからだ。

 次郎は慎重に決断し、純顕および幕閣に計画を伝えた。並行して、北海道の開発も進めなければならない。

 なにせ表向きは蝦夷えぞ地の『方の・・』開発である。

 来年の万博は10月31日(西暦)に終了するが、1年以上も北海道の開発に取りかからないのは明らかに不適切だからだ。

 かと言って、そう触れ込んで集めた人員をアラスカに送るわけにはいかない。

 次郎はアラスカの開発に必要な人員について、軍関係者と共に協議した。




 ■大村

「国境策定のための標識設置には、公儀の天文方の協力も要るでしょう。陸軍の測量班だけでもあたいますが、何分にも人が足りませぬゆえ時間がかかり申す」

「いかほど要るでしょうか?」

 陸軍大臣の高島秋帆と海軍大臣の江頭官太夫かんだゆうの前で、次郎は質問した。

「経緯儀を用いた測量隊、天文観測隊、標識設置班とあわせて、五百名ほどは要るかと」

「なるほど、要塞は?」

「これは長年にわたり蝦夷地の備えに尽力してきた昭三郎(立石昭三郎)とその部隊、加えて蝦夷地の松前家中の兵も加えなければならぬでしょう。なにしろ、彼の地は蝦夷地よりも北にあり、相応の備えなくば死人がでます」

「うむ」

 工兵部隊・常駐守備隊・測量技師団・標識設置班・採掘班・道路建設隊・初期移民などを含め、総勢5,000名となった。




 ■大村 海軍工廠こうしょう

「諸君、大鯨の航行距離は六百十三個の蓄電池で百三十二海里(約240km)だ」

 技師長は資料を机に『どんっ』と置いて言った。

「されど充電には陸上のドックが必須である。戦時に然様さような余裕があるか? いかにして敵に近づくのだ」

 机の上の紅茶カップが震え、スプーンがきしむ。

「されどし技師長、数百人の乗員が潜水艦を『来るぞ、来るぞ』と見張っていれば、そりゃあ見つかるのは当然ですよ。何日も、昼夜を問わず能いますか?」

「ないとは言い切れまい? 夜ならば能うと言うのか? 条件はこちらも同じ。目が見えない有り様で、いかにして敵を狙うのだ」

「航続距離を考えるならば、充電用のディーゼルエンジンを積んだ母艦を建造すべきではございませんか?」

 論点が航続距離から秘匿性に変わり、再び航続距離に戻る。若い技師が立ち上がり、顔を赤くして興奮していた。

「母艦による洋上充電が能えば、航続距離は数倍に延びます」

「母艦? ふん、潜水艦こそが『見えざる刺客』ではないか」

 中堅の技師は言い放った。

「母艦が敵に見つかれば、潜水艦ごと殲滅せんめつされる。策が矛盾しておるではないか。そもそも潜水艦とは言え、潜望鏡を出していなければ安心して航行できぬなら、いかほど危ういか計り知れぬぞ」

「それに関しては」

 さらに別の若い技師が反論した。

「理化学研究所で研究中の電磁波や電波は反射すると聞き及んでおります。これを用いて海中の障害物を……これは敵の位置も含めますが、つかめるのではないでしょうか。さすれば安全に航行し、確実に敵を捉えること能えまする」

「荒唐無稽だ!」

 さらなる技術革新が進む……。




 次回予告 第379話 『大村藩の財政問題』

コメント

タイトルとURLをコピーしました