第9話 『ロシア・ウクライナ戦争』

 2025年3月16日(令和7年3月16日)

「この馬鹿者が! 一列に並べ! 足を開け! 歯を食いしばれ!」

(元)飛龍副長の鹿江隆(海軍中佐)の叫び声が聞こえた。

「はっ!」

 角野、橋本、重松が横並びになり、足を開いて休めの姿勢で直立不動の状態になる。

「まったく、角野、お前がいるのに、何でこうなったんだ!」

 その瞬間『バキッ』という強烈な音が響き渡り、鹿江の鉄拳が角野の頬にたたき込まれた。




 続いて、橋本と重松への強打の音が響く。

 原因は飲酒のし過ぎである。昨夜は飲みすぎて、全員が海東の実家に帰らず、酒が抜けきらないまま『いずも』に戻ってきたからだ。

「やれやれ、お恥ずかしい。とんだ失態をお目にかけました」

 山口の発言に対して、小松や石川はあ然として耳を傾けている。

 旧海軍における鉄拳制裁の存在は聞いていたが、実際に目にするのは初めてだ。いや、本来過去の慣習なのだから、あるはずがない。

 少し離れたところで直立不動の海東は、思わず目を背けた。

 鉄拳制裁の音が艦内に響き渡り、三人の乗組員の頬が赤く腫れ上がっている。昭和の軍隊の気風が目の前に現れたのだ。

 この令和の時代に突如として現れた光景に、誰もが戸惑いを隠せない様子だった。

「申し訳ありません!」

 三人はそろって頭を下げた。その姿勢は乱れずにきっちりと九十度を保っている。昨夜の失態を深く反省している様子が伝わってきた。

「今後は二度と起こすんじゃないぞ。肝に銘じておけ」

 鹿江の声は低く重かった。そのまなざしには怒りよりも、むしろ失望の色が濃く浮かんでいる。

「はっ!」

 強烈だがその後はさっぱりしていた。今後ネチネチは言わない。




「さて、どうしようかね」

 隊司令の小松は、艦長の石川を見つめている。強烈な鉄拳制裁を目の当たりにし、海上自衛隊(航空自衛隊からの派遣)の海東二尉に対する処分を考えているのだ。

「どうしたもんですかね……」

 石川はニヤリと笑いながら海東を見つめ、右手を握ってグルグルと拳を回し、鉄拳制裁のまねをする。

 海東は直立不動のまま顔をゆがめて、(やめてくれ)と無言で懇願していた。

 もちろん、現在の自衛隊に鉄拳制裁はない。約30年前までビンタはあったが、それでもゲンコツはなかった。

「まあ、前支えが妥当か?」

「そうですね。そうしますか」

 小松の提案に対して石川が応じた。

「前支え、よーい!」

 石川の号令で、海東は素早く腕立て伏せの姿勢をとった。

「はじめっ!」

 体勢が整ったと同時に石川の号令がかかり、腕を曲げない状態でキープする。自衛隊名物『前支え』だ。

「後は頼んだぞ、当直士官。海東二尉、黙っていいところに行くからだ。オレに教えておけば、こうはならんかったのに」

「いえ……司令や艦長には、もっと高級な店があるかと思いまして……」

 腕をプルプルさせながら海東が声を上げた。

「まあ、頑張れ」

「海東二尉、悪く思わないでくださいね。僕もやりたくはないんです」

 小松と石川が去った後、1分隊の当直士官が申し訳なさそうに言った。




 飲みに行った翌日、2025年2月15日(令和7年2月15日)のことである。




 ■2025年3月16日(令和7年3月16日) 護衛艦『いずも』 多目的室

「これはソ連、いや……ロシアですね。彼らは戦争を引き起こし、同胞であった旧ソ連邦のウクライナに侵攻した。3年前の2022年2月24日の出来事ですね」

 山口はモニターに映し出されたウクライナ情勢の動画を見ながら、淡々と声を上げた。

 動画によるニュース映像は、砲撃で破壊された街の惨状や逃げ惑う人々の姿を容赦なく映し出している。

 黒煙が空を覆い、爆音が響き渡る。子供を抱きかかえる母親の表情は、恐怖と悲しみにゆがんでいた。

「平和憲法……か……」

 静かにつぶやいた。

 その声には、複雑な感情が込められている。

 敗戦と平和憲法。

 小松司令から聞かされた現代日本の姿は、山口にとってあまりにも大きな変化だった。

 かつて祖国の繁栄を願い、命を懸けて戦ったあの日々は、一体何だったのか。

 目の前に映し出されている映像は、遠い国での出来事である。

 しかし、山口には他人事とは思えなかった。おそらく、飛龍の乗員全員が同じ気持ちであっただろう。

「ウクライナ情勢に関する映像を見て、どう感じましたか?」

 隊司令の小松が山口に静かに問いかける。山口は腕を組み、目を細めて画面を見つめていた。

「戦争が再び起こるとは……。我々の時代もそうでしたが、戦争は常に民衆を巻き込むものです。しかし、この状況は私には理解し難い。ロシアとウクライナは同胞ではなかったのですか?」

「そのとおりです。同じソ連邦の一部でした。しかし、冷戦後の独立とその後の対立が原因で、現在の状況に至っています」

 と小松が説明した。

「なるほど。国際社会はこれにどう対応しているのでしょうか?」

「経済制裁や外交的圧力を中心に対応していますが、直接的な軍事介入は避けています。日本も経済制裁に参加しています」

 と石川が補足した。

「経済制裁……。それで戦争が止まるのであれば良いのですが、我々の時代にはそんな選択肢はありませんでした。いや、制裁をするだけの国力もなかったのです。したがって、我々は常に武力で決着をつけるしかなかった……。そういえば、日本が脱退した国連は、今もまだ存在しているのでしょう?」

「はい、国連は健在です」

 小松はうなずいた。

「いや、失礼しました。正確には日本が脱退した国際連盟ではありません。先の大戦後に設立された国際連合……略して国連ですが、私はこの日本語の名称があまり好きではありません。さらに言えば、変更すべきだと考えています」

「どういう意味ですか?」

 山口、加来、そして副長の鹿江やパイロットをはじめとする士官たちが、小松の言葉を待つ。

『国際連合(United Nations)』

「これは日本語だけを見ると、国際的な連合や国家の連合体に見えます。しかし英語では”United Nations”。つまり”The Allies”や”Allied Powers”と同じ意味になります。お分かりでしょうか? ”United Nations”は皆さんがよくご存じの連合国と同じなのです。あり得ますか?」

 断言し、ゆがんだ現実を指摘した小松の言葉は、多目的室に重く響き渡った。

 連合国と同義である名称の『国際連合』。

 旧日本海軍の将兵にとって、それは受け入れがたい事実であった。彼らはほんの2か月前まで連合国と戦っており、現代に飛ばされて敗北の事実を知ったのだ。

 その組織が今も国際社会で中心的な役割を担っている以上、彼らが複雑な思いを抱くのは必然である。

「連合国と同じ……」

 山口が言葉の意味を確かめながら静かに繰り返した。

「そうです」

「国際連合は、第二次世界大戦の戦勝国、つまり連合国を基盤として設立された組織を指します。日本が加盟を果たしたのは1956年ですが、それまでは敗戦国として扱われていました」

「なるほど……」

 山口は腕を組み、視線をモニターから外さずに話を続けた。

「つまり、この組織は我々が戦った相手方が主導して作り上げた……皮肉なものですね」

「さらに、わが国は敵国条項として国連憲章に記載されている。一時は完全削除の動きがありましたが、現在もなおその条項は残っているんです」

 小松の言葉は、多目的室に静かに投下された爆弾のようだった。

 敵国条項。

 それは、かつての敵国であった日本を国際連合の枠組みの中で特別に扱う条項である。

 山口たちにとってそれは、敗戦を経験していないにもかかわらず突きつけられる、あり得ない事実であった。

「司令、その発言は艦内なんでいいですけど、よそで言っちゃだめですよ。自衛官が政治的な発言をすると、周囲からの反響が大きいですからね……。とはいえ、私も同じ考えです。現在は有名無実化しているので、実質的には存在しないに等しいんですけどね」

 自衛官の政治的発言は、非常にデリケートな問題として挙げられる。

 公式の場で発言するのはプレスルーム内のみであり、その一挙手一投足は国民に監視されているのだ。

 冗談のつもりで言った石川だったが、逆にしんみりとした空気にしてしまった。

 山口は目を閉じ、加来は腕を組んでいる。鹿江は拳を握りしめて黙っているが、他のメンバーも同様の気持ちを抱いているのだろう。

 若い士官は下を向いていた。




 死んだら靖国やすくにで会おう。

 そう誓って死んでいった戦友もいたからだ。

 ミッドウェー海戦までの戦局は悪くなく、戦死者も少なかったとはいえ、ゼロではない。

 しかも彼らは、国のために戦って命をささげた英霊をまつる靖国神社の扱いについて、メディアを通じて知っている。

 なぜこんな扱いを受けなければならないのだろうか?

 なぜ国の指導者が参拝する際に、他国の顔色をうかがわなければならないのか?

 おかしい。 何かが変だ。

 そう沈黙が物語っていた。




 次回予告 第10話 『軍人としての矜持きょうじと日本人の誇り』

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