第379話 『航路問題と大村藩財政問題』

 慶応二年八月四日(1866年9月12日)<次郎左衛門>

「え? 今、何とおっしゃいましたか?」

 オレは耳を疑った。

 ここは駐日フランス帝国公使館。

 目の前にいるのは公使のレオン・ロッシュだ。

「私もパリ万博への貴国の出品物を確認した際に、申し上げるべきでしたが、失念しておりました」

 そんな馬鹿な!

 朝鮮に行くのとは訳が違うんだぞ?

 文久の遣欧使節のときだって、往復しているじゃないか!

「失礼、公使。確か、地中海とインド洋を結ぶスエズ運河はどうなんですか? そこを通れば問題ないのでは?」

「いいえ、それが問題なのです」

 ロッシュは申し訳なさそうに首を振った。

「スエズ運河は現在も工事中で、完成は来年の予定です。パリ万博は来年の3月から11月まで開催されます。残念ながら、運河を経由してフランスへは向かえません」

 やべーな。

 喜望峰を回るとなると、どう考えても補給地の問題がでてくる。確か……。

 今から約40年後の日露戦争で、バルチック艦隊はイギリスの植民地を経由せずに四苦八苦して日本までやってくる。

 フランスとドイツの植民地を経由して、ようやくだ。

 今、そのやっとこさの経由地はあるのか?

「失礼、公使。現在、喜望峰周りの航路しか選択肢がないのですが、フランスやポルトガル、ドイツなどの第三国の領土を経由するのは難しいのでしょうか」

「そうですね……」

 ロッシュは椅子の背もたれに寄りかかり、しばらく考え込んだ。

「フランスの植民地であるマダガスカルは寄港地として利用できますが、それだけでは不十分でしょう。喜望峰までの航路を考慮すると、どうしてもイギリスの植民地を経由しなければなりません」

 くそっ!

 マジかあ……。

 アラスカの国境交渉までイギリスに借りを作りたくない。そもそも、あれは国境を決定するための方便で、国交回復にしたって最小限にする予定だったんだよ。

 補給地を提供するとなると、そうはいかない。

 アラスカの国境交渉で足もとを見られないか?

「公使、セネガルは? ガボンはどうです? アンゴラは? ナミビアもある……」

 オレは思いつく限りの地名を言った。

 記憶は定かじゃないが、確か19世紀のフランス領か、ポルトガル領、またはドイツ領だったと思う。

 ……はずだ。

 頼む、この1867年(来年もしくは現段階)には植民地であってくれ!

 確かバルチック艦隊もその経路を通った……はずだ(記憶が定かじゃない)。

「フランス領セネガルは寄港地として利用可能ですし、ガボンも同様です。しかし……」

 ロッシュは言葉を切るが、その表情は複雑だ。

「アンゴラはポルトガルの領土で、ナミビアのウォルビスベイはイギリスの統治下にあります。それ以外の地域には現地住民が混在していますが、寄港できる港はありません。いずれにせよ、喜望峰周辺のルートでは、どうしてもイギリスの植民地を経由せざるを得ません」

 くそっ。

 記憶違いだった。

 ナミビアは確かにドイツ領になるはずだけど、今はまだイギリス領だなんて。

 オレは椅子の背もたれに深くもたれかかった。汗が止まらん。

「ポルトガル領のアンゴラは何とかなるのでは? ナミビアは南隣にあり、マダガスカルまで無補給で行くのは難しいでしょうか?」

 ロッシュは地図を広げ、指でアフリカ大陸の西岸をたどる。

「アンゴラからマダガスカルまでは、およそ4,000海里。貴国の艦船の性能を考慮すれば、理論上は可能かもしれません。しかし……」

 おいおい、どうした?

 頼むから首を横に振るなよ。

「あの海域は非常に危険です。暴風や海流の変化が激しく、さらに海賊も出没します。無補給での航行は、リスクがあまりにも高い」

 やべえな、どうするか。

 イギリスの植民地を避けて航行するのは、かなりリスキーじゃねえか。

「では、アンゴラからケープタウンを経由せずに、直接マダガスカルへ向かうのは……」

「非常に危険です」

 でしょうね……。はあ。

 ため息しか出ない。

 状況は予想以上に厳しいぞ。

 それに、前回の文久の遣欧使節とは違う。

 今回は、軍艦二隻に加え、潜水艦(曳航えいこう)と水雷艇(曳航?)がある。補給艦を随伴させても大して状況は変わらない。

 そもそも洋上補給っていったって、石炭をどうやって? しかも航行中だぞ。

 いや、ちょっと盲点だった。

 確か……補給艦による洋上補給の研究が行われていたな。

 あーくそ。

 忙しくて詳しく見てねーよ。

 どっちにしても厳しいのは良くわかった。

 それに、ロッシュはそれを踏まえて言っているはずだ。

「では、他に何か方法はありませんか? 最悪の場合、イギリスに頼らざるを得ませんが、それは本当に不本意です」

 ロッシュは軽くため息をつき、表情を曇らせた。

「残念ながら、他のルートは現実的ではありません。喜望峰周りのルートを回避する場合、南米大陸を迂回うかいするルートしか選択肢がありませんが……」

 オレは瞬間的に不可能だと感じた。

 確かにイギリスの植民地には寄港しなくてもいい……が。

「ドレーク海峡を通過しなければなりませんね」

「ええ。あの海域は世界でも最も危険な航路の一つです。暴風や巨大な波、さらには氷山の危険もある。特に冬場は……」

 ケープと同じじゃねえか。

 オレは机に置かれた地図を見つめながら、歯をかみしめた。

「万博は3月に始まりますよね。となると、ドレーク海峡の通過は真冬ですね……」

「そうです。リスクが非常に高い」

 あーもう! どうすりゃいいんだっ!

 ロッシュの言葉に、ふっかい(深い)ため息をつくしかなかった。

 あれ? 確か南米大陸に……マゼラン海峡! あの辺は他にも狭い海峡がなかったか?

 いや……あったとしてもロッシュが言わない時点で使わない理由があるはずだ。

 浅瀬があるとか地形が入り組んでいるとかね。

 そう言えば、あの辺の地形はリアス海岸や九十九島の海岸線をゴチャゴチャにした感じだった気がする。

 無理か……。

 はあ。

 イギリスの植民地を経由するか、命がけの航路を選ぶか。

 どっちを選んでも大きなリスクがある。

 目の前のロッシュは顔色を変えないが、ここでイギリスの手を借りるとなると、フランスはイギリスに対して大きな貸しができる。

 なんせ断交状態にある日本を仲介するんだからな。

 アジアにおける権益の譲渡、またはフランス領インドシナ(コーチシナ・カンボジア)のアンナン・トンキン・ラオスへの拡大を黙認するとか。

 日本に対して良心的ではあるが、外交官は当然国益を考慮しなければならない。それ自体は特に悪くない。

「わかりました。その件は持ち帰って協議いたします」

 オレはロッシュに感謝の意を伝え、公使館を後にした。




 ■大村藩邸

 あーやっべ。

 ねっむ! (眠い)

 コーヒージャンキーだよ。

「兄上、大事ござらぬか」

「父上、お加減が悪いようですが」

 数年前から業務にちょこちょこ同行させている、弟の彦次郎と嫡男の三郎助武直改め顕武(藩主純顕からの偏諱へんき)だ。

 航路問題で頭を悩ませている上に、財政問題も重くのしかかっている。

「ただ今、家中の財政状況と各事業の収支報告をまとめています」

 彦次郎が差し出した書類に目を通した。視界がかすんで、文字が二重に見える。

「ふむ。石炭と臭水、それから茶の売れ行きは問題ないな。されど、海軍の維持費がやはりかさんでいる……」

 オレは額を押さえながら、机に広げられた帳簿を見つめていた。数字がおどって見える。

「は、海軍の維持費につきましては要所で節約に努めておりますが、それでも百二十六万両ほどかかるかと」

 三郎助が内訳を説明している。

 お里からの石けんやマーガリン、化粧品などの産物の売れ行きは良いと聞いているが、その報告書はまた別だ。

 生糸は仕方がない。

 廻送令かいそうれいもあるし、上野介との取り決めだからな。

 あれ……目がかすむぞ。

 何だこれ。

「父上、お休みください」

 三郎助の声が遠くに聞こえる。

「いや、まだだ。歳入を増やさねば。パリ万博の出品準備もある。それに航路の問題も……」

 言葉が途切れる。視界がゆがみ始めた。

「兄上!」

 慌てて駆け寄る二人の姿が見える。

 床に倒れ込む直前、思った。




 やっべ……オレ、死ぬのかな。




 次回予告 第380話 『過労と財政と航路』

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