慶応二年八月十二日(1866年9月20日)
「まったくもう、お前様ときたら。子煩悩かと思えば、家のことはまったく気にしない。そのくせお役目は、人に任せればいいものまで自分でしないと気が済まない。倒れるまでお勤めなさるなんて、尋常ではありませんよ」
「バカ、バカ、バカ……ジロちゃんのバカ。何でそんな無茶するの? 私にできることがあれば言ってよね。スーパーマンじゃないんだから」
ん、何だ? どうしたどうした?
右には気丈な武家の美人奥様。
左には、天真爛漫で気さくな現代的な美女が泣いている。
「ん……」
頭がずきずきと痛む。
「あなた!」
お静の声が聞こえる。右横で不安そうな表情を浮かべて座っていた。
「いつも無理をなさる。今度ばかりは本当に心配しましたよ」
お里も左隣でうなずいている。二人とも疲れた顔をしていた。
「あーん! ジロちゃんのバカバカバカ!」
「すまない……いかほど寝ていたのだ?」
「16……時間くらい(八刻)かな。昨日の夜8時ごろ(|戌《いぬ》の刻)に倒れて」
お里が答える。手には帳簿を握っていた。
「財政の件は私に任せて。今までも実質的には私が……」
言いかけて口ごもる。お里の気遣いだ。
「奥のことも、これからも私が取り仕切りますので、ご安心ください」
「うむ。わかった。お静もありがとう。今後はしかと休む。お里、じゃあ、頼むね」
二人の前では現代語と幕末語が混ざり合う。
なんだか変な感じだ。
「お里、歳出と歳入の……」
「お前様」
「ジロちゃん」
お、おう……。
思いっきりにらまれた。
「海軍と陸軍の予算はかなり多いけど、大丈夫。何とかなるからゆっくり休んで。後で報告書出しておくから」
「そうですよ。お前様。養生なさってください」
うん、女は、いや、妻は強しか。
■翌日
「父上、お加減はいかがですか?」
襖が開き、彦次郎と顕武が入ってきた。
「ああ、もう大丈夫だ。お前たちにも頼みがある」
二人は真剣な表情でうなずいた。
「彦次郎は私の補佐として常に同行してもらいたい。顕武には軍事関連の業務を任せようと思う」
「承知いたしました」
「さらば、パリまでの航路にございますが」
顕武が懸念される航路について尋ねる。
「うむ。イギリスの植民地を経ぬとなれば、喜望峰回りは危ういが、わが海軍の艦艇と補給艦をもってすれば障りなかろうか。経由地は蘭印もしくは仏印、マダガスカル、リオデジャネイロでよい。さすれば欧州まで障りなく航海能うであろう」
「蘭印や仏印、リオデジャネイロは合点がいきますが、マダガルカルは給炭地としては適さぬと存じますが」
「なに、水と食料の補給は能うであろう。十分じゃ」
「されど父上、マダガスカルの港湾施設は未整備。現地情勢も不安定との情報が入っております。仏領レユニオン島経由の方が給炭には適しているかと存じますが……」
「顕武よ」
「は」
「かたい」
「え?」
「わしも存じておる。仏領のレユニオン島じゃろう? 面倒なのでマダガスカルと言うたのじゃ」
「め、面倒?」
レユニオン島は知っていたが、すぐには思い出せなかったのでマダガスカルと答えてしまったのだ。
正確には、現時点においてマダガスカルはフランスの領土ではない。
もしかすると、フランスは現時点で1897年のマダガスカルの吸収を狙っているのか?
いや、イギリスが日本に負けた今、あり得るかもしれない。
史実では30年後だが、手始めにプレゼンスを見せるのは効果的だ。日本と自国の友好度合いをイギリスに見せつけられるからな。
「とにかくじゃ。顕武は海軍方へ行き、最終的な航路計画と補給計画の段取りに入れ。彦次郎はロッシュ公使の元へ向かい、その旨を伝えよ。ああ、さらばオランダ総領事のポルスブルック殿にも要請しなければならん。いずれを選ぶかはわからんが、頼むぞ」
「 「はは」 」
さて、どっちでいくか。
開陽丸の事例を見れば、蘭印アンボイナからリオデジャネイロ、そしてフランスへと向かう。
これは可能だ。
リオデジャネイロの利用に関しては、まったく問題ない。
しかし今回の航海は、フランスの後押しを受けて万博に参加するためだ。そのために経由地を検討する必要がある。仏印のコーチシナか、蘭印のアンボイナのどちらかを選択しなければならない。
レユニオン島は利用してもしなくても航行は可能だが、利用した方が楽ではある。フランスとしては日仏の友好を示せば、これ以上のプレゼンスはない。
イギリスのアジアにおける影響力は低下しているが、すぐに回復するはずだ。
フランスの植民地に戦勝国である日本の軍艦が入港すれば、かなりの存在感を示すはずだ。フランスとしては、オレたちとの友好関係をアピールしたいおもわくがあるのかもしれない。
メキシコ出兵は失敗に終わり、撤退する。
いや、むしろだからこそ、日本の軍艦や艦隊を寄港させて、国際的な地位を高めようとしているのか?
ここは、折衷案として蘭印アンボイナ経由でレユニオン島を経由する方が無難かな。
開陽丸はオランダの士官によって運用されて回航されるはずだけど、残念ながら遠洋航海の経験がうちにはない。だから、リスクを減らしながら航海の経験を積まなきゃならない。
よし、それでいこう。
ん、なんだ? ロウソク……で、ゲ! こんなに? 他にも!
次回予告 第381話 『実は黒字でいざゆかん万博へ!』

コメント