第850話 『登州決戦』

 慶長三年五月十五日(西暦1598年6月18日)

 満州国が登州に侵攻して1か月。

 その間李化龍りかりゅうは敵の動きを警戒しつつ、防衛線の強化を図ってきた。しかし、事態は彼の予想以上に深刻な展開を見せている。

「総兵大人! 沙門島しゃもんとうに敵の本隊と思われる援軍!」

「なに? 数は?」

 明軍は威海衛に五千、登州城に一万五千の兵を配置していたが、芝罘島しふうとうからの満州国軍の防衛のために五千を割り当てていた。

 兵力の逐次投入は兵法において愚策とされている。

 逐次投入した軍は、個別に撃破されてしまうからだ。

 寡兵が大軍に対抗する際の戦術の一つに、敵軍を分断して撃破する方法があるが、その典型的な例である。

 しかし、明軍は兵力が劣っているにもかかわらず、防衛線を東西に広げざるを得なかった。その結果、限られた兵力を分散させる形になったのである。

「三万とも言われる敵兵が、沙門島沖に停泊しており、こちらに総攻撃を仕掛ける兆しがあります!」

 副官の声には緊迫感が漂っていた。

 李化龍は歯を食いしばる。

 想像以上に早く、かつ大規模な援軍が到着したのだ。

「朝廷は一体どうなっているのだ? 陛下も都を手放すのは屈辱だろう。しかしここで南へ退却しなければ、最悪の場合、紫禁城が包囲されるぞ」

 李化龍は地図を広げて、状況を把握した。

 満州国軍は芝罘島と沙門島に拠点を築き、明軍を挟み撃ちにする準備を進めている。時間が経つにつれて、状況はますます不利になっているのだ。

「しかし、ここで退くわけにはいかぬ」

 北京への進軍を許せば、都は危機的な状況に直面する。何としても退却のための時間を稼がなければならない。

 明が採るべき戦術は、山東で女真の攻撃を防ぎつつ北京の朝廷を迅速に南下させ、防衛線を構築することである。

 その後、肥前国に調停を求め、休戦するほかに選択肢はない。

「急いで都に急使を送れ! 女真の大軍が迫っている。速やかに南へ撤退されたしと」

 それから、と李化龍は話を続けた。

「威海衛の指揮使に伝えよ! 衛所を放棄し、芝罘島からの上陸防衛部隊に合流せよと!」

「はは!」

 威海衛は山東半島を守る衛所であったが、ヌルハチは戦線拡大の愚かさを理解していたはずである。

 上陸地点を悟られないための撹乱かくらんは成功したが、現在では黄海側に上陸する必要性は極めて低い。




 ■寧夏

「陛下、明国より使者が参っております」

「そうか」

 土文秀が哱承恩ぼしょうおんに明国の使者の来訪を伝えた。

 来訪に驚かず、冷静でいるのは、その訪問が予測できていたからだ。

「通すが良い」

「はっ」

「寧夏国王、哱承恩陛下におかれましては……」

「御使者どの、お気遣いありがたいが、通り一遍の挨拶のために来られたのではないでしょう? ご用件を伺いたい」

 哱承恩の心は決まっていた。

 形式上は使者の謁見を許したが、その内容も、それに対する答えも決まっていたのだ。

「わが国は貴国との同盟を望んでおります。女真の脅威に対抗するため、互いに手を取り合い……」

 使者の言葉は丁寧だが、その口調にはかすかな慢心が表れている。まるで、独立を認めてやった恩義を売るかのようだ。

「父上も生前、明との関係を重視しておりました」

 哱承恩は言葉を選びながら静かに答えた。明の使者の態度にいらだちを覚えながらも、それを表には出さない。

「まさに。かつてはわが国の一部であった寧夏が独立を果たし、今や対等な立場で……」

 その言葉に、哱承恩の側近たちが思わず顔をしかめた。『かつてはわが国の一部』という表現に、明の傲慢さが如実に表れている。

「御使者殿。わが国は既に独立国です。その事実は貴国も認めているはず」

 哱承恩の声は冷たく響いた。使者は一瞬たじろぎ、慌てて頭を下げる。

「申し訳ございません。無礼な発言でした」

 表向きは謝罪の言葉を述べたものの、慇懃無礼とはこのことである。哱承恩はそれを見逃さない。

(やはり明は、我らをいまだ属国と見ているのか……)

「では伺いたい。先ほど御使者殿は『女真の脅威』とおっしゃったが、別に満州国はわが国の脅威ではない。それに国号を定めた満州国を、女真と呼ぶのはどうかと思うが……。さて、貴国と同盟してわが寧夏に利はありますかな?」

 対等な国の一国の元首と、使者である。

 本来であれば元首が上で使者が下の立場になる。

 それをあえて、承恩は敬意を込めた言葉遣いをしていたのだ。

 明の使者は言葉に詰まった。承恩の鋭い質問に、即座の返答ができない。

「その……わが国の領土の保全こそが、貴国の利益となるはず。もし満州国がわが国を滅ぼせば、次は必ずや貴国も……」

「なるほど」

 承恩は静かにうなずいた。

「確かにその可能性は完全には否定できないでしょう。しかし、起こってもいないことを考え、今の女真との友好を壊すのは避けねばならん。つまり、貴国と同盟を結んでも、わが国の利にはならない。大方……肥前国に後ろ盾を頼もうとして、断られたから来たのではないかな?」

 使者の顔が青ざめる。承恩の言葉があまりにも核心を突いていたからだ。

「とんでもない。そのような……」

「はて、おかしい。ならばなぜ、独立してすぐに同盟を結ぼうと使者が来られなかったのでしょうか? 貴国にとっての満州国の脅威は、その時と変わっておらぬのでは?」

 使者は言葉に詰まった。

「申し訳ございませんが……その……」

 もはや取り繕う言葉も見つからない。承恩は静かに目を閉じ、ゆっくりと話を続ける。

「父上は生前、わが国の独立を勝ち取りました。それは明との戦いの末に得たものです。父上はその後、明との和平を望んだ。しかし、それは対等な立場での和平であって、決して属国としてではない」

 承恩は立ち上がり、毅然きぜんとした態度で告げた。その目には強い意志が宿っている。

「帰られよ。今、わが国は明との同盟は考えられない」

 少なくとも今は、だ。

 明が弱体化し、遷都後に南明となった後、かつての領土を寧夏と女真とで分割統治する。

 その後に、大陸における三国鼎立ていりつが成立したとき。

 それが寧夏が明と不可侵条約を結ぶときである。

 そう承恩は考えていた。

 すでに満州国から使者が来訪し、共同して明を攻める密約が成立していたのだ。




 ■登州

「総兵大人! 敵軍、こちらに向かってきます!」

「全軍に命じよ! 絶対に女真のヤツらを上陸させるな! 死守するのだ!」

 明軍と満州国軍の壮絶な攻防戦が始まった。




 次回予告 第851話 『順天府と天津衛』

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