慶応二年九月二十日(1866年10月28日)
チュイルリー宮殿の一室は、異様な熱気に満ちていた。
中央の大きなテーブルには、駐日フランス帝国公使レオン・ロッシュからの報告書と、それに添付された写真が広がっている。
ナポレオン三世(シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト)は、厳しい表情を浮かべながら肘掛け椅子に深く身を沈め、集まった科学アカデミーの各分野の最高権威たちの顔を一人ひとり見渡した。
そのメンバーは、フランスの知性と技術力の結晶であったが、誰もが困惑し、一種の畏怖を抱かずにはいられない。
「諸君、ロッシュ公使からの報告は読んだな」
ナポレオン三世の声は低く、部屋の隅々にまで響き渡った。
「率直な意見を聞きたい。まずは、ド・ロームとベルタン。大村藩( clan・一族・家中)の潜水艦と水雷艇に関する意見を聞こう」
軍事項目は国家の動向に大きな影響を与える重要なテーマである。
「陛下、まず結論から申し上げますと、これは荒唐無稽な話であり、正直なところ、私には信じられません。ディーゼルの意味も分かりません。ただ、内燃機関は……」
途中まで話していたド・ロームは、言葉を詰まらせた。
「どうしたのだ? 遠慮する必要はない。率直に話してくれと言ったはずだ」
「は……」
内燃機関は19世紀以前から多くの研究が行われてきたが、19世紀に入って都市ガスが普及し始めると、その発展はさらに加速した。
1866年の時点では、1860年に開発されたエティエンヌ・ルノアールのガスエンジンが存在するが、出力が低く燃費が悪いため、商業化には至っていない。
ニコラウス・オットーの2ストロークガスエンジンが初めて世に出たのは、1867年のパリ万博である。
ディーゼルエンジンはさらに後の1892年に、ルドルフ・ディーゼルによって発明されるのだ。
「現在、各国の海軍では潜水艦の研究開発が盛んに行われています。しかし、もし蒸気やガスとは異なる内燃機関を搭載した潜水艦が存在するならば……」
ド・ロームは、一度考えを巡らせてから、話を続けた。
「わが海軍の潜水艦プロンジュールよりも高性能なのは疑いの余地がありません。比較にならないほどの長距離航行能力と潜航時間を誇るでしょう。フランス海軍にとって、これは重大な脅威となるに違いありません」
「まさかそんな……本当か?」
ナポレオン三世の驚きは、言葉では表現しきれないほどであった。
「ベルタン、君もそう思うかね?」
皇帝の質問に対してベルタンは、ド・ロームの顔を見つめ、うなずくのを確認してから答えた。
「師匠のおっしゃるとおりです、陛下。しかし、さらに注目すべきは兵装です。この目録には『自走水雷』と記されています。おそらく刺突による爆破ではなく、水雷に動力を備え付け、敵に遠距離から攻撃を仕掛けるのでしょう。もしそうであれば、世界に類を見ません」
「なるほど、そうか。それでは、わが帝国の潜水艦よりも優れていると?」
「……残念ながら」
ナポレオン三世は椅子の背もたれに深く身を委ね、その表情には驚きと落胆が交錯していた。
「聞いたこともないエンジンで自動的に走る魚雷とは……非常に興味深いが……」
皇帝の言葉に、科学アカデミーのメンバーたちは息をのんで耳を傾ける。
「しかし、それ以上に気になるのは、この『電磁波の送受信装置』だ。誰か見解はないか?」
科学者たちはお互いの顔を見つめ合ったが、すぐには誰も返答しない。
マクスウェルの電磁場理論が発表されたのは1864年であり、わずか2年しか経っていないこの理論が、すでに実証されているというのだ。
「陛下」
ジュール・ジャマンが一歩前に進み出た。
「陛下、電磁波が光と同様の性質を持つ件は、イギリスのマクスウェル博士の理論として発表されています。しかし、その実証実験にはまだ成功した者はいません」
「なるほど……。続けよ」
ナポレオン三世はジャマンの意見に耳を傾けるが、彼が期待しているのは技術者としての専門的な見解ではない。
わかりやすく、簡潔に話せ、と言っているのだ。
「もし大村clanが実際に電磁波の送受信に成功しているのであれば、それは理論の正しさを証明するだけでなく、全く新しい技術革新の可能性を示唆します」
「ほう、具体的には?」
「例えば、距離を超えた場所への情報伝達を考えてみましょう。電信とは違って物理的な線を必要とせず、空間を介して情報を送信できる可能性があるのです」
ナポレオン三世の目が鋭く輝いた。
が、すぐに『くくく』と笑い出し、まるで冗談を聞いているかのような表情を浮かべる。
「そんなことが可能なのか?」
「……もし実証されていれば、可能性が全くないとは言えません」
「何とも言えない、か」
「はい。しかし、もし電磁波の理論が実証されているのであれば、マクスウェル博士は電磁波が物体に反射する可能性にも言及しています。それが事実であれば、暗闇の中で敵艦の位置を探知するのも不可能ではありません」
「なに! ?」
皇帝の声が部屋中に響き渡ると、科学者たちの表情は一層緊張感を増した。
「つまり、大村clanの潜水艦は、暗闇の中でも敵を探知できるのか?」
「いいえ。ただし、その可能性は否定できません。電磁波が水中において|伝播《でんぱ》速度や品質にどう影響を受けるかは、さらなる研究が必要です。しかし、現時点では……」
「はっきりしないな。結局、どちらなのだ?」
「申し訳ありませんが、科学者の役割は可能性の追求です。もし実用化しているとすれば、信じがたいですが全く可能性がないとは言い切れません」
部屋の空気がさらに重くなった。
その後、他の品目も同様の質疑応答が行われたが、結果は同じである。
誰もが、日本のある地方の領主が持つ技術の驚異的な進歩に驚きを隠せなかったのだ。
■大村藩
「え、なんだこれ? こんなに収益が上がっているの?」
倒れた後、次郎には一之進から厳しい命令が出されていた。
1日6時間以上の睡眠を確保し、適度な運動とバランスの取れた食事をする。
他の人にできる仕事は適切に分担し、ストレスを増やさない。
もともと健康オタクではあったが、それは主に食事と運動に関してだけであり、ワーカホリックな側面は残っていたのだ。
「そのとおりです、兄上。陸海軍の維持費や予算は確かに膨大にございますが、無駄を省く努力はしています。また、歳入が減少したところは別で補っております」
日本においてロウソクは、主に和ろうそくが使用されていた。和ろうそくは植物の櫨を原料としており、非常に高価である。
そのため、庶民には手が届かない。仏壇のある家庭、いわゆる武家や裕福な商家で使用されるか、吉原の遊郭などで用いられる高級品だったのだ。
他には菜種油などの植物油を使ったが、こちらも高価で庶民には手が出ない。
そこで半値ほどで手に入る魚油や、地域によっては臭水(原油)も照明用として利用されていたのである。
大村藩では、まず精製した魚油を菜種油市場に投入し、その後、石油の精製が可能になった際には灯油も市場に参入させた。
安価で明るさも兼ね備えた大村製の油は、30年の間に全国で広く普及している。
鯨油はそれまで照明用として使用されていたが、その後、石灰を加えてロウソクを製造しはじめた。結果、用途が変わって歳入の一助となったのだ。
現在、慶応の日本では、照明用として灯油ランプや石油パラフィンを使用した洋ロウソクが広く流通している。
ただし、ロウソクは関東圏を除く地域での取り扱いである。
廻送令の影響により、ロウソクの状況は微妙だったため、関東圏からは撤退していたのだ。
しかし、和ロウソクの照明としての役割はすでに終わってしまった。
灯油が広く普及している以上、廻送令の蝋はもはや意味を持たなくなってきている。
魚油や鯨油は照明の役割を灯油に譲った。しかし鹸化技術の発展によりロウソクや石けんに変わり、さらにはマーガリンとして新たな収入源となっている。
マーガリンは食文化の違いから流通があまり進んでいないが、石けんと同様に輸出によって利益を上げていた。
「ふむ、オレの知らないところで、いろいろと苦労しているのだな」
次郎はお里のことを言っているのだ。
「そうですよ、兄上。お義姉さまにお任せして、兄上は国のために尽力してください」
いや、うーん……。実は面倒な外交よりも、内政に専念したいんだけど……。最初の頃のオレの立ち回りって、そうじゃなかったかな?
次郎の心の声である。
「それで、どうだ? ポルスブルック殿は納得されたか?」
「はい。万博へわが家中の軍艦で向かう旨をお伝えしたところ、ぜひアンボイナをと仰せでした。されど仏領コーチシナとの関係も考慮し、折衷案としてコーチシナとバタヴィアでの補給となりました」
「うむ、まあ史実とは違うからな」
「え? しじつとは何ですか?」
「いや、何でもない」
さて、いよいよ万博である。
次回予告 第382話 『幕府海軍と大村海軍』

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