第11話 『オットー・ヘウルニウス』

 1590年5月12日 オランダ ライデン <オットー・ヘウルニウス>

 5年前の出来事だった。

 オレが7歳の時、すべてが突然変わった。いや、正確に言うと、オレ自身が変わったのだ。

 父の研究室で初めて解剖を目にした日は、今でも鮮明に記憶に残っている。

 オレは『オットー・ヘウルニウス』として生きていたはずが、突然『菊池大輔』としての記憶がよみがえったのだ。

 21世紀の日本で外科医として活躍していたオレが、突然16世紀のオランダの少年に転生してしまった瞬間だった。

 台の上には解剖用の死体が横たわっている。

 父、ヨハネス・ヘウルニウスがメスを手に取り、冷静な手つきで皮膚を切り開いていく様子を、オレはただぼう然と見つめるしかなかった。

「オットー、しっかり見ておきなさい。より詳しく、正確に人体の秘密を解き明かすんだ」

 父はそう言いながら、血管や筋肉を指し示していた。しかし不十分な点があり、オレの記憶と比べるといささか稚拙に感じる。

 しかし、オレは何も言えない。

 自分の持っている知識と、この時代の医学との間にあるギャップに圧倒されていたのだ。

 小さな手と小さな体。そしてこの時代特有の匂い――湿った木材やロウソクの煙、さらに混じり合う腐った肉の臭い。

 やがてすべてが、オレを現実に引き戻した。

「父上、この血管は……」

 思わず口を開いた瞬間、父が鋭い視線を向けてきた。

 7歳の子供がそんな質問をするはずがないと思ったのかもしれない。父は慌てて言葉を飲み込んだ。

 数日間、オレは自分が転生した理由を考え続けていた。

 しかし、答えが出るはずがない。

 確信していたのは、ただひとつ。この時代で、オレは何かを成し遂げなければならない。




 5年がたち、12歳になったオレはラテンスクールの中等部に通い、大学進学に向けて準備している。父親が大学の教授であるため、その期待は非常に大きい。

 ラテン語は全くの無知だったが、今世の記憶のおかげで覚える必要はない。

 12年間の経験を通じて、確実に理解できる。

 しかし5年もたてば、高尚な目的意識は消えてしまった。

 ていうかそんな余裕はない。

 かなりの詰め込み教育で、さすがのオレも参ってしまった。だって、医学とは全く関係のない神学や古典文学まで勉強しなければならないんだぜ。

 興味のバロメーターでいうと、完全にマイナスに振り切っている。

 そんなわけで、今日は学友たちと一緒に近くの川で校外学習していた。




「おい! あれを見ろ! 溺れているぞ!」

 誰かが叫ぶと、川岸にいた生徒たちは一斉に声の方を振り向いた。川の中央付近で、小さな影が必死にもがいているのが見える。

 子供だ。

 オレは思わず上着を脱ぎ捨てた。

「オットー! 危ないぞ!」

 友人が止めようとしたが、オレの体はすでに動き出していた。

 冷たい水が全身を包み込む感覚が広がる。

 前世の病院で何度も溺水患者を診察した経験が、オレの体を動かしていた。

 ただし、12歳の体じゃ限界がある。

 溺れている子供に近づくのがやっとだった。

 でもオレは必死に泳ぎ続けた。

「つかまれ!」

 子供は答えない。(? オレも子供なんだけど、まあいいや)

 オレは子供の背後から近づき、後ろから抱きかかえた。

 おそらく5、6歳前後だが、すでに意識を失っている。

 岸までの距離はそれほど遠くなかったが、12歳の体で意識を失った子供を運ぶのは、想像以上にきつかった。

 やっと岸にたどり着くと、すでに大人たちが集まっていて子供を引き上げてくれた。

「おい、どうする? 意識がないみたいだ。息はしてるのか?」

「急いで! 医者を呼んでくれ!」

 周囲から焦りの声が上がる中、オレは冷静に状況を見極めていた。

「待ってください。まずは気道を確保します」

 オレは子供の体を横向きにし、口の中の水を吐き出させた。その後、仰向けにして気道を確保する。

「何をしているんだ! 医者を……」

「黙って見ていてください! 呼んでいたら間に合わなくなります!」

 オレは大声で制止を叫んだ。12歳の少年が大人に向かって怒鳴るなんて、普通なら考えられない。しかし、今はそんな場合じゃない。

 医者としての無意識的な反応だ。

 一分一秒を惜しむ。

 呼吸の有無を確認し、胸骨の圧迫を始めた。

「1、2、3、4……」

 心の中で数を数えつつ、適切な圧迫を続ける。

『なんてことを!』

 周囲の批判は無視した。

 30回の胸部圧迫の後に、人工呼吸を2回。

 これを繰り返す。

 そして、3サイクル目に入ると、突然子供が激しくせき込み始めた。

「良かった……」

 オレは思わずほっと息をついた。その瞬間、周囲の人々をかき分けながら誰かが近づいてきた。




「フレデリック様!」




<フレデリック・ヘンドリック>

 ちょっと待て。

 今何て言った?

 人工呼吸?

 気道の確保?

 日本語じゃねえか。

 クルシウスのじいさんのところにジャガイモの件で来てみたら、大人と子供たちが(オレも子供)集まって騒いでいる。溺れた人には迅速な対応が必要だ。

 オレは医者じゃないが、一応救命のレクチャーは受けている。

 万が一の事態には……いや、6才のガキにできるかわからないが、少なくとも医者を呼ぶまでに何かできるはずだ。

 ……が、何だこれ?

 人工呼吸と心臓マッサージが終わって蘇生そせいに成功している。

 一体誰がやったんだ?

 人工呼吸や心臓マッサージなんて、16世紀に存在していたのか?

 人々の間をかき分けて進むと、少年の姿が目に入った。

 12歳くらいの金髪の少年が、ぬれた服を着たまま立ち上がろうとしている。

「大丈夫ですか?」

 オレが声をかけると、少年は一瞬驚いた表情を見せた。

「はい、問題ありません」

 その声にオレはハッとする。

 こいつだ。

 あの日本語はこいつの声だった。

 間違いなく日本語で叫んでいたはず。

『人工呼吸』

『気道確保』

 この時代にあるはずがない。

 いや、あったのか?




「私はフレデリック・ヘンドリックです。兄はオラニエ公マウリッツで、ネーデルラントの総督です」

「オットー・ヘウルニウスです。父はライデン大学で医学の教授を務めています」

 少年――オットーは正確なオランダ語で答えた。

 12歳とは思えないほど落ち着いているが、さっきの医療行為は間違いなく現代のものだった。

「しかし大変でしたね。まさかこっちで人工呼吸するなんて(日本語で)」

「そうなんですよ。でも人命には代えられませんからね(日本語で)」




「 「! !」 」




(マジか。こいつ間違いなく日本人、転生者だ)

(え? 日本語? まさか……)




 次回予告 第12話 『転生者フレデリックと転生者オットー&コンパス・オブ・ディスティニー』

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