第383話 『仏領コーチシナ』

 慶応二年十月十日(1866年11月16日)

 次郎はこの航海を終えた後、幕府に願い出て海軍士官の練習航海を年に一度実施しようと考えていた。

 幕府海軍にも必要だろうが、今後、日本が近代国家として列強と渡り合っていくには見聞を広める必要がある。

 また、世界の海軍とするためには、遠洋航海が必須だと考えたからだ。

 何事もなく、無事フランスまで到着するように願っていたが、やはり、トラブルが発生した。

「御家老様、後続の土佐藩『南海丸』より信号が来ております」

「ん、何じゃ?」




 ■土佐藩 南海丸

「どうなっちゅーがじゃ、龍馬りょうま。早う治せ。これではわが藩の面目丸つぶれじゃないか」

 南海丸は機関故障のために速度が落ち、後続との衝突を防ぐために隊列から離れようとしていた。

 艦内で書類に目を通していた後藤象二郎は、気分転換に外の空気を吸っていたのだが、艦が隊列を離れているのに気づいたのだ。

「後藤さん、そりゃあもうやっちゅー。社中の連中がいま一所懸命にやっちゅー。だいたい、ちゃんと整備しちょったがか? 十年たっちゅーゆうたち、しっかり整備しちょったなら、こがなんにはなっちょらんやろう?」

「そ、そりゃオレにはわからん。船の整備は下の者がやっちょったきねや」

 龍馬はあきれて物が言えない。

 藩籍の有無に関係なく、龍馬の性格からして次郎にねじ込んでも渡欧を決断していただろうが、土佐藩も参加となり、急遽きゅうきょ運用要員として呼ばれたのだ。

 であるから、この船は龍馬の物では当然ないし、日ごろの整備も龍馬の知ったことではない。

 後藤配下の土佐藩士の怠慢である。

「まあ、待っちょき。ちっくと見てくる」

 龍馬は肩をすくめ、機関室へと向かった。階段を降りていく背中には、後藤の申し訳なさそうな視線が注がれている。

「おい、こっちはどうなっちょる?」

 機関室に入るなり、龍馬は汗を拭いながら作業している土佐藩士たちに声をかけた。蒸気機関の熱気で、室内は蒸し風呂のようだ。

「龍馬さん! どうも主軸受けの調子が悪いみたいです。温度が上がりすぎて……」

 若い機関士が焦った様子で報告する。龍馬は黙ってうなずき、主軸受けを確認した。

「なんじゃこりゃあ! 油が切れかかっちょるやないか!」

 龍馬の表情が曇る。

 日ごろの点検を怠っていたのは一目瞭然だった。主軸受けの焼き付きは、最悪の場合、機関の完全停止につながる。

「知行に合図を送れ。応急処置に時間がかかりそうじゃき、一旦停泊させてもらおう」

 龍馬の指示に、船員たちが慌ただしく動きだす。このままでは万博どころではない。龍馬は額の汗を拭いながら、作業に取り掛かった。




 が、簡単に修理できる状態ではなかった。




 ■知行艦上

「それで、いかなる有り様なのでしょうか、後藤殿」

 全艦停止、ボイラーの火を落とさずにそのまま艦隊は停泊している。

 南海丸の状況を聞くために使者が赴き、申し開きのために後藤が知行へ小舟でやってきたのだ。

 このころには後藤は中老格となっている。

 土佐藩の参政や大監察を歴任し、吉田東洋隠居後の藩政を取り仕切っていた。

「いや、それがですね。どうにも、機関の主軸の具合が悪いようなのです」

「シャフト! ?」

 次郎は思わず叫んでしまった。

 下手をすれば致命傷である。

「それで、いかなる具合なのですか。洋上で修繕あたうのですか?」

「いや、それは何とも……」

「何ともって、それでは話にならんではありませぬか。わかる者は来ておらんのですか」

 どうにも手際が悪い。

 後藤象二郎は有能ではあるが、船の事に関してはまったくの素人であった。素人が専門家に説明できるはずがない。

 次郎は機関の専門家ではないが、主軸の重要性はわかる。

 大村藩でもオイル漏れをどう対処するかで苦労した歴史があるのだ。

「もういいです。それがしが参りましょう」

 次郎はそう言うやいなや、後藤を促して小舟に乗って南海丸へ向かった。

 オランダの士官もいれば、富士山にはフランスの士官もいる。

 大村藩の落ち度はまったくなくても、ここで失態を見せれば、日本の印象が悪くなるのは火を見るより明らかだった。




 ■南海丸

「大村藩家老、太田和蔵人くろうどである。機関の具合はいかがだ?」

 乗艦して一直線に機関室に向かった次郎は、開口一番に聞いた。

「! どうにもこうにも、こりゃあ港で修理せんと……ん? その声は……ああ! 次郎様!」

 大村の海軍伝習課程を修了して以来である。

 大村藩とは商売の関係で付き合いが深かったが、個人的に会うのは久しぶりなのだ。

 パリ万博の参加者というよりも、乗艦名簿などいちいち確認しないのだ。

 それに他藩である。

「久しいな、龍馬。して……難しか」

「はい、港にて修繕するより他ないかと」

 次郎は龍馬の説明を聞きながら、機関室の状況を詳しく確認した。

 主軸受けは確かに深刻な状態で、このまま航行を続ければ、機関全体に致命的な損傷を与えかねない。

「幸い、サイゴンには今日の夕刻に着く予定じゃった。風がないゆえ曳航えいこうとなるが、それでも暗くなるまでには着くであろう」

「ありがとうございます、次郎様。このままじゃあ危ないところやった」

 龍馬の言葉に、次郎は静かにうなずいた。

 11月にもかかわらず、機関室の暑さで額に汗がにじむ。

「いや、事は土佐藩だけの問題ではないからの」

 次郎は龍馬の肩をたたき、階段を上がりながら続けた。

「それに、ここで無理をして故障が悪化すれば、万博どころではなくなる。一藩の不手際ではなく、日本の面目に関わるのじゃ」

 甲板に戻ると、後藤象二郎が不安げな表情で待っていた。

 次郎は穏やかな口調で状況を説明し、曳航と寄港後の修理の件を伝えた。




 ■仏領コーチシナ サイゴン(ホーチミン)

「されど龍馬よ、何ゆえかような問題が起きたのだ? 他の家中の儀ゆえ、あまりとやかくは聞きたくないが、行って帰るまでは一心同体じゃ」

「それが、まっこと恥ずかしい限りなんですが」

「うむ」

 龍馬は土佐藩の内情を話し始めた。

 土佐藩の軍艦や商船の運用は、基本的に大村の海軍伝習課程で学んだ者が担っている。
 
 しかし近年は受講者が少ない。

 卒業者が教官となって教えているのだが、給料が低く待遇も悪いために、士気がかなり低いようなのだ。

 教官だけではない。

 乗組員の藩士はもっと安く、大村藩や幕府の水兵の半分、よくて三分の一らしい。

 大村藩の水兵の給料は少なくとも月給で二両近くあった。

 これは大工の給料よりも高い。人夫の二倍近くあり、年間でいえば米二石分である。

 つまり、成人二人分の年間の食費分はあるのだ。

 藩を代表して海軍で働くからには、との考えで、次郎が考案して提案している。

「なんと……しかし、これは……」

 人は財産である。

 いかに最先端の軍艦があろうとも、それを動かす人材がいなければ話にならない。

 それに、土佐藩は交易によって藩の財政は上向きだと次郎は聞いていたので驚いたのだ。




 次郎は嫌な予感がした。

 土佐藩がこれなら、他の藩も十分にあり得る。




 次回予告 第384話 『蘭領バタヴィア』

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