慶応二年十月二十四日(1866年11月30日)
ごう音と共に、暗雲が艦隊を覆い尽くした。
「縮帆! 備えよ!」
顕武の命令がすぐさま甲板の乗組員に告げられる。
雨音はさらに大きくなり、声がかき消されそうなほどだ。
「隼人助(大村艦隊司令)、スコール、いや、ヴォルクブレーク(豪雨)とハルデ・ヴィンドストート(強い突風)ならば、数分の我慢であろう?」
次郎はじっと顕武の操艦を見守っている隼人助に尋ねた。
「はい、されど様子がおかしゅうございます。これだけで終わればよいのですが……」
そう、スコールだけなら単発で海難事故になる可能性は低い。
一般的に一時的な視界不良や、あったとしても帆やマストの損壊、バラストの移動による傾斜や転覆の危険性のみである。
しかし、暴風・高波・台風が重なった場合には、深刻な事態になり得るのだ。
「次郎殿! いかがか! ?」
勝が駆け込んできた。
幕府勢は大村海軍旗艦の『知行』に移乗し、矢田堀は富士山に残ったままである。
「勝殿! ……ええ、単発で終わればよいのですが、続けば厳しいやもしれませぬ」
勝海舟は咸臨丸で太平洋を横断して渡米していた。
往路はアメリカ海軍の助けを受けたが、復路はほぼ日本人による航海である。その乗組員が残っており、伝習所でも優秀な者だけが富士山に乗り込んでいた。
自然と勝の目線は洋上の富士山ではなく、他藩の艦船に向けられる。
突如、艦の左舷から強風が吹きつけた。
「傾斜二十度!」
知行は大きく傾いた。甲板上の水兵たちは手すりや支索につかまり、必死に踏ん張っている。
「艦長! 後方艦隊に散開の気配!」
見張りの声に、次郎は後方を振り返った。
薄暗い中、各艦の姿が見える。
幕府艦隊の冨士山は何とか隊列を保っているが、その後ろを航行していた加賀藩の李百里が大きく右にそれていた。
嵐が過ぎ去り――。
「各部、損害を知らせ!」
顕武の声が響いて水兵がテキパキと動いている。
「御家老様、加賀藩の……李百里の姿が見えません」
「何? 遭難、したのか……」
隼人助の報告に次郎は頭を抱えた。
だから、言わんこっちゃない!
荒天時の対処を誤ったのか?
いや、仮に遭難したとしても、海図と航海用具はあるはず。
バタヴィアに行くと分かっているのだから、オレたちの助けがなくても、船体に問題がなければ、後からやってくるはずだ。
艦隊は周囲を捜索し、それでも見つからない場合はバタヴィアへ寄港して対策を練ることとなった。
■バタヴィア
大村海軍の艦艇は、自藩で建造されてはいるが、オランダ海軍の影響を色濃く受けている。
今回はそれが幸いした。
本来交換した方が良かった南海丸の機関部品であったが、サイゴンでは見つからなかった。しかしバタヴィアはオランダの本拠地である。
該当する(それに準ずる)部品のストックがあって、次郎は迷うことなく交換を命じたのだ。本来、他艦の軍艦のことなど口を出す問題ではない。
しかし、今回は特別であった。
龍馬ももろ手を挙げて賛成する。
「兄上、また航程にずれが出ますな」
彦三郎武光が次郎に語りかけてきた。
嵐のときは船室で動けず吐いていたが、元気になって体調も問題ないようである。
「うむ、また時間がかかってしまった。これ以上遅れると、万博の初日には間に合わぬであろうな。ロッシュ殿には申し訳ないが、致し方あるまい」
彦三郎の隣には次弟の隼人と廉之助、そして医師で江戸病院長の長与俊之助がいた。
隼人と廉之助は信之介の代わりに科学技術の責任者として、俊之助は医学ブースの責任者として同行していたのだ。
「俊之助、けが人は、病人は出ておらぬか?」
「はい、障りありませぬ。けが人はおりますが、軽傷にございます」
長い航海である。
病人やけが人の一人や二人くらい出てもおかしくはない。そういう意味で俊之助は一之進の分身である。
次郎は全幅の信頼を寄せていた。
「隼人、廉之助、無線は……いや、まだ先か、すまん」
「いえ兄上、無線通信、しかも声での通話のことを仰せなのでしょう? もし無線通信が実用化されていれば、各艦との連絡も障りなく能うたのではないか、と」
次郎はぐっと唇をかみしめ、息を吐いた。
「そうだ……な。されど、ないものねだりをしても始まらん」
「いえ、御家老様、ない物ねだりではございません。すでに有線の電話は開発しておるのです。無線の電信が能うれば、必ずや声の通信も能います」
廉之助が真っすぐ次郎をみた。
隼人も同じである。
絶対に開発してみせる、と、目が訴えていた。
「ふふふ、ありがとう。さすがだ。わが弟ながら怖いわ。二人も優秀な弟子がいて信之介がうらやましい。廉之助、隼人を頼むよ」
「はいっ!」
「兄上! ですからいつも申し上げているように、それがしも子供ではございませんから!」
わはははは、と笑いが起きた。
「御家老様、皆様お集まりのようです」
「うむ、すぐ行く」
ようやく雰囲気が明るくなった室内に、次郎を呼ぶ兵の声がした。今後の対策会議が開かれるのだ。
知行の士官室へ次郎は向かった。
「皆様、事ここに至っては、捜索に全力を尽くすほかないと存じます。万博は、初日からの参加はおそらくかないますまい。されど、ここで何もせずば武門の名折れ。列強からも笑われましょうぞ」
武士道?
シーマンシップ?
いや、遭難者を放置などできないのだ。
■ボルネオ島 北西部沿岸
「雄次郎よ、ここはどこなのだ?」
「は、ここは南洋ボルネオ島の、サラワク王国ではないかと存じます。今、兵が上陸して周囲を探険しております」
李百里丸は機関が損傷して復旧せず、またマストや帆にも損傷があって、漂流後にようやく島を発見して停泊しているのだった。
「サラワク王国? 聞いたことがないな。そこはオランダかフランスの領土なのか?」
「……」
「いかがした?」
岡田雄次郎は口ごもったあと、ゆっくりと口を開いた。
「いえ、イギリスにございます」
次回予告 第386話 『図らずも』

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