慶長三年八月一日(西暦1598年9月1日) 諫早
「殿下はこれでもまだ、明が弱まるべきだと仰せになりますか――」
明国の内閣次輔、沈一貫は諫早城下の外交使節迎賓館の一室に滞在していた。
純正との初回交渉から一週間。
彼は齢六十を超え、最後の奉公とでも思っているのだろうか。
良い返事を純正からもらうまでは、決して祖国の土は踏むまいと、決死の覚悟である。
「千方よ、沈一貫はああいったが、今は三国のそれぞれの力の勢いは如何であろうか?」
純正の問いに対して、千方は手元の地図と兵力表を見比べながら、静かに口を開く。
「は、様々な有り様を思い見れば(熟慮すれば)、明は明らかに勢において劣っておりまする。兵数にして四万三千。義勇の兵を足したとて五万三千にて、寧夏の四万と女真の四万を合わせれば八万。このままの有り様では、寧夏と女真が合力しておる限り、明の勝ち筋は薄いかと」
今後明において義勇軍が増えたとして、二万七千が増えても同数で、しかも民兵である。士気は高くても崩れやすく、練度は低い。
「では、このままの有り様が続けば明は危ういか? 直茂よ」
会議に同席している内閣戦略室長の鍋島直茂に発言を求める。
「は。寧夏と女真が手を結び、明を挟み撃ちにしている状況では、明の勝機は乏しいかと存じます」
直茂は落ち着いた声で答えた。
何もなく、このままの状況が続けば、明は南へ南へと圧迫され、反対に女真と寧夏の国力は強まることになる。
「されど、寧夏と女真の盟がいつまで続くかは分かりませぬ。両国とも野心家揃い。哱承恩は父より偉大だと証明したいでしょうし、ヌルハチはそもそも明を滅ぼそうと考えております。ゆえに倒した後、互いを警戒し合うことは必定にございましょう」
「然様か……」
純正はうなずきながら窓の外に広がる諫早の街並みを見た。
港には商船が停泊し、街路には商人や職人たちが行き交っている。この平和な光景は、長い年月をかけて築き上げたものだ。
しかし、国連や世界政府樹立などと理想を掲げてはいるが、実現にはほど遠い。アジアの平穏はいまだならず、スペインも凋落しているとは言え健在である。
「モンゴルはどうなっておる?」
純正の問いに、千方が素早く答える。
「オルドス部は寧夏と同盟、チャハル部は女真族とは敵対しておりますが、その他のトゥメト、ヨンシエブ、ハルハ、ウリャンカイの各部は様子見かと」
「うべな(なるほど)」
純正は考えている。
明の国力と今後の展望。
女真と寧夏の勢いと今後の趨勢。
「そろそろ、口入れ(介入)のよき頃合いであるか?」
次郎は内閣戦略会議室の面々を、ゆっくりと見渡した。
筆頭の鍋島直茂、次席の尾和谷弥三郎、 佐志方庄兵衛、 土居三郎清良、 黒田官兵衛、 宇喜多基家の六名だ。
「誰からでも構わぬ。口入れするならばいかなる手立てがあるか、申してみよ」
純正の声に、重臣たちは互いに顔を見合わせた。
「チャハル部を使うのはいかがでしょうか」
官兵衛が静かに口を開いた。
宇喜多基家以外は五十を過ぎ、直茂は還暦である。そろそろ若い人材を入れる必要があるが、面々は老いを全く感じさせない。
「女真と敵対しているチャハル部に助力をし、女真の後背を突かせる。さすれば女真は明攻めどころではなくなりましょう」
「ふむ」
チャハル部への支援は確かに一つの選択肢だ。しかし、それだけでは不十分かもしれない。
「官兵衛の言や良し、されどオレが言っていうのは然様なことではない。女真と盟は結んでおらねど、不介入の約を結んでおるではないか。情報省のこと、失敗はないと思うが、もし露見すれば我らは諸国の信を失うぞ」
ヌルハチの腹心が肥前国に来訪し、援助はしないが、その代わり介入もしないと約束していたのだ。
「では殿下は、いかにして口入れをなさろうとお考えなのですか?」
清良が尋ねた。
全員が純正の発言を待っている。
「なに、特段難しことではない。まずは河間府と保定府に使者を遣り、停戦の口入れをするのはいかがじゃ? 女真も寧夏も新たな領土を得たのだ。それに今、これ以上戦を続ければ、明も相当抗うであろう。失も多くなる、とな」
会議室理事の面々は顔を見合わせる。
「それで、それで丸く収まりましょうや」
弥三郎の問いに対して純正は笑って答える。
「なに、収まらぬなら収まらぬで、それはオレの面子を潰すことになるであろう? それに我らの目的は大陸の三分であり、一強を生むことではない。それを望むのならば、我らの敵だ」
笑顔が一転、不適な笑みとなった。
「我らも、それを他国に強いること能うるようになったのですね」
直茂が純正に問いかけた。
「そういうことだ」
■女真領 遼東 三萬衛
「も、申し上げます! 蒙古軍が、大軍で攻め寄せてきます!」
「なにい! ? 馬鹿な事を言うな!」
守備隊長はあわてて情報を集めるが、モンゴルのトゥメンと呼ばれる部族の連合軍だと判明した。
女真と敵対関係にあったチャハル部を筆頭に、寧夏と同盟を結んでいるオルドス部、アスト部やハラチン部を併合したヨンシエブ、ハルハ部、トメト部、ウリャンカイ部が連合を組んで攻めてきたのである。
総勢四万。
対する女真の守備兵は正規兵が一万五千。
かき集めても二万人弱である。
不意をつかれた女真軍の劣勢は明らかであった。
次回予告 第855話 『仲介と撤退』

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