第16話 『砂糖で儲ける? 石けんで守る? 富と衛生を両立せよ!』

 1590年8月23日 オランダ ライデン

「え? どういうこと?」

 フレデリックは立ち上がってシャルルに詰め寄った。

 無理もない。

 市場を徹底的に探し回ってクルシウスにも相談し、何度も計算を重ねた結果なのだ。それを一言で否定されてしまうと、さすがに6歳のフレデリックでもイラッとしてしまう。

 確かに、実際に収穫してみなければ、収穫量は分からない。

 あ!

 フレデリックは突然、大声を上げた。

「うわ~!」

 なんでテンサイを栽培している農家を調べなかったのだろう?

 塩や他の作物に気を取られていた?

 収穫量なんて、飼料用に栽培している農家に聞けばそれで十分じゃないか。

 フレデリックは詰め寄ったシャルルに対して申し訳なさそうに尋ねる。

 彼に対して何かをしたわけではないが、なんとなくそういう状況になってしまったのだ。

「……それで、どのくらいの量が取れるの?」

「そうだな。正確には現在の農家に聞かなければならないが、おそらく10アールあたり1トンも収穫できないだろうね。実際の文献によれば、19世紀初頭には1ヘクタールあたり10トンの収穫なんだ。その後の品種改良で現在では、ああ、21世紀ね。約60トンの収穫が可能になったんだよ」

 フレデリックは約1,600kgと予想していたため、その数字はほぼ半分に近い。

「糖度に関しては21世紀は約17%だが、品種改良前はおそらく4%程度。18世紀末のデータでも5~6%だよ」




 がががーん!

 フレデリックの思考を表現するなら、まさにこうである。

「ありがとう、シャルルおじさん。再計算するね」

 感受性が高い子供だからなのか、それとも、もともとの伊藤英太郎の性格のせいなのか。

 気分をすぐに切り替えたフレデリックは、計算を始めた。

 10アールあたりの年間生産量は半分の800kgで、糖分は技術的要因も含めて4%とする。そうするとショ糖の生産量は32kgとなる。

 人件費は、当初計算していた年間1,800ギルダー。

 ……これは幸か不幸か、計算した人数に誤りがあったため、一人でも十分に管理できるのだ。そのため、年間の人件費を一人分として再計算する。

 それを基に再計算すると、年間157ギルダーだ。

 32kgは約70ポンドになる。

 販売価格は1ポンドあたり24ギルダーから34.5ギルダーとして、70ポンドの場合、合計で1,680ギルダーから2,415ギルダーの計算結果となった。

 タネや初期費用、人件費は誤差の範囲内だ。

「実は兄貴との約束で小規模からスタートするって決めていたんだ。だから利益は10分の1でも、黒字なら調整しながら徐々に拡大していけばいい。それで、シャルルおじさん、品種改良や生産量を増やすのはできるの?」

 フレデリックは悔しさを隠して言い訳をした。

 負け惜しみかどうかは判断が難しいが、結局のところ、捕らぬたぬきの皮算用になってしまったのは確かだ。

 フレデリックの顔には緊張が見える一方で、発想を転換すればこれから成長する可能性を感じているのかもしれない。

「もちろんできるよ。ただ、少し時間がかかる。分かるよね?」

 フレデリックは瞬時に理解した。

 これは農業に限ったことではないが、肥料の例を挙げると、ハーバー・ボッシュ法が発明されたおかげで、ほぼ無限に肥料を生産できるようになった。

 現代に生きてきた三人は、中世のオランダにおいて、何もないところから始める難しさを強く実感する。

「この状態のままで、質の高い個体を交配させるだけで品種改良するなら、5年から10年はかかるな」

「え? そんなに?」

 ががががーん! だ。

「……でも、それで糖分が15%になって収穫量は10アールあたり約6トンになるんだよね?」

 フレデリックは恐る恐る尋ねてみたが、シャルルは首を横に振る。

「そんなに簡単ではないんだよ。そうやって、ようやく糖度が1~2%上昇する程度だ。収穫量も10~20%程度の増加にとどまるな」

 まじか。

 とでも言わんばかりのフレデリックの顔だ。

「でも、シャルル様、現代の知識を活用すれば、時間を短縮できるんでしょ? それにフレデリック、ポルトガルの事情もあるから、しばらくは大規模な展開は難しいよな? 値段調整や市場の動向を見ながら進めるのも悪くないぜ。時間がかかっても、他の場所で利益をとろうよ」

 フレデリックの落胆を見て、かわいそうに思ったのか、オットーがフォローの言葉をかけた。

「市場については詳しくはないが、窒素肥料が難しいなら、干鰯ほしかは手に入るよな? なければ、自分たちで作ればいい。それにニシン漁が盛んだから、食用以外にも油や肥料として利用できるはずだ。これで生産量は増える。家畜肥料と干鰯、さらにノーフォーク農法を取り入れれば、収量は20~30%増加するだろう」

 しばらくの間、言葉にできない沈黙が続いた後、フレデリックが口を開いた。

「ええと、砂糖は、おじさん! 頼んだよ! よろしくね! それからオットー、医学の方はどうなんだ? 魔術問題はしばらくは大丈夫だと思うけど、お前は何か考えているのか?」

「まずは石けんを作れ!」

 フレデリックが言い終わる前に、オットーが反論した。

「外科的治療技術? それはまあ、すぐに実現するのは無理だな。技術的な障害がありすぎる。ボチボチやるしかねえ。石けんの衛生効果に関する臨床試験もしなくちゃなんねえだろ。ほら、あれだあれ。なんていうか中世ラノベと異世界ラノベの定番のテーマがあるだろう? 病気の」

「あ!」

 フレデリックが声を上げると、オットーはそのとおりと言わんばかりにニヤリと笑った。

 が、しかしすぐに真剣な表情に変わり、話を続ける。




「ペスト」

 オットーはその一言を口にした。

 フレデリックは思わず身震いする。

 この時代、ペストの大流行は収束しているものの、依然として局地的な流行が続いていた。その恐ろしさは、誰もが知るところである。

「ペストには三つのタイプがある。腺ペスト、敗血症性ペスト、そして肺ペストだ。最も一般的なのは腺ペストで、これはノミに刺されて感染する。敗血症性ペストは血液感染、肺ペストは飛沫ひまつ感染だ」

 オットーは医者らしく、冷静に説明した。

 え? ノミだけじゃねえの?

 フレデリックが小声で口にした。

「ノミだけじゃない。むしろ、それが厄介なんだ」

 オットーは深刻な表情で続けた。

「ペスト菌を持つネズミのノミが人を刺すのが一般的だが、一度感染すると人から人へと感染する。特に肺ペストはせきやくしゃみを通じて感染するから、一気に広がる。それに、さっきのは通説だが、ネズミじゃなく、感染した人間の血を吸ったノミが他の人を刺しても感染するんだ」

 フレデリックは思わず体を震わせた。




 この時代、人々は病気の正体も、その予防法も知らない。だからこそ恐ろしいのだ。

「だから、石けんだ」

 オットーの声が響く。

「手洗いの習慣を広めれば、感染リスクは下がる。それに清潔な環境を保てば、ネズミも寄り付かなくなるしな」

「でもさ、なんで石けんで感染リスクが下がるんだ?」

 フレデリックは素朴な疑問を口にした。

「うん、ざっくり説明するとだな……」

 オットーは言葉を選びながら続ける。

「石けんには2つの重要な作用があるんだ。まず、物理的に汚れを落とす。これは目に見える。でも、もう一つ大事なのは、石けんの成分が細菌膜を破壊するんだ」

「細胞膜?」

「そう、細菌の細胞膜。石けんの成分がそれを壊すから、細菌が死ぬってわけさ」

「なるほど! じゃあ石けんを使えば、ペストの原因になるペスト菌も死ぬんだな」

「その通り。ただし、この時代の人に『目に見えない生き物』を説明するのは難しい。だからまずは『汚れを落とすと病気にならない』という単純な事実から始めないとな」

 厳密に言えば、石けんの使用とペスト感染予防との間には、直接的な因果関係はない。

 どれだけ清潔に保とうとしても、ノミに刺されてしまったら結果は同じだ。石けんの使用とペストの感染は、あくまで間接的な関係として捉えた方がいい。

 それに石けんの効果が証明されたとしても、衛生環境の改善は一朝一夕には実現できない。金銭的なコストや時間が必要となるからだ。

 まずは、食べ物やゴミを放置せず、整理整頓された清潔な環境を保つことを勧めよう。これによりネズミが寄り付きにくくなり、結果としてノミの発生源も減少する。

 下水道の整備に関しては論より証拠だ。

 フレデリックとオットー、そしてシャルル達が住んでいる地域で具体的な例を挙げて示すしかないだろう。

「それなら、石けんや砂糖も、儲からないな。塩とロウソクで稼ぐしかない。ギルドとの兼ね合いは兄貴に聞いておく」




 次回予告 第17話 『利益はどこに? 塩・ロウソク・石けん生産の裏側とその後の展開』

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