慶応二年十一月十日(1866年12月16日)サラワク王国 クチン
「な、何をなさっておいでなのですか……」
次郎は加賀藩の名代である前田慶寧に近づき、最初にこう言った。
慶寧は酒杯を手に持ったまま、次郎の声に驚いて振り返った。その表情には困惑と申し訳なさが入り混じっている。
「蔵人殿、よくぞお越しくださいました。この有り様、申し訳なく……」
「いえ、そのことではございませぬ。何ゆえ、かような……」
次郎は言葉を詰まらせた。
目の前では加賀藩の人々が、まるで宴会のようにどんちゃん騒ぎを……と思っていたが、実際はそうではなかった。
料理は豪華で、酒も豊富にそろえられているが、誰一人として泥酔している者はいない。
「実は……」
慶寧が言葉を濁らせると、その瞬間、部屋の奥から聞き覚えのある声が響いた。
「これは、Mr.オオタワ。お久しぶりです」
次郎は思わず息をのむ。
その声の主は、以前の日英交渉で対峙したエイベル・アンソニー・ジェームズ・ガウワーだったのだ。彼は変わらぬ笑みを浮かべながら、ゆっくりと近づいてくる。
前回の交渉では次郎に『子供の使い』と揶揄されたが、今回は自信に満ちた表情を浮かべていた。
「まさか、こんな形で再会するとは」
ガウワーの口調は穏やかだが、その目には鋭い光が宿っている。まるで汚名返上を果たそうとしているかのようだ。
次郎は静かに深い息を吐き、背筋を伸ばす。
「ガウワー殿、まさに予想外の再会でございますな。先ほどもサラワク王国の国王代理にご挨拶して、今回のご協力に対する感謝の意を伝えたところです。イギリスの方々にもご協力いただいたそうで、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました」
次郎は深々と頭を下げ、感謝の気持ちを表した。
「いえいえ、国際的な文明国家として当然です。気にしないでください。お互い様ですから。ところでMr.オオタワ、貴国の艦隊がフランスに向かっていると伺いました。我々も航路の安全確保に協力を」
ガウワーの言葉を受けて、次郎は慶寧の方をちらりと見た。慶寧はかすかにうなずきながら、懐から一枚の紙を取り出した。
「蔵人殿、こちらを」
受け取った紙には、整然とした文字でサラワク王国の実態が詳細に記述されている。目を通すうちに、次郎の表情がわずかに変わった。
「ほう……」
表向きは独立国でありながら、実際にはアヘンの密輸や華僑に対する圧政、さらには現地住民からの搾取が行われている。
イギリスの庇護がなければ成り立たない王国の姿が浮かび上がってきた。
「ガウワー殿」
次郎は紙を懐にしまい込み、穏やかな口調で話し始めた。
「航路の安全は確かに重要です。されど、貴国の配慮は不要かと。なにせ……」
そのとき、宴会場の隅で一人の華僑が接客しながら、慶寧に目を向けた。慶寧はごく自然な仕草で軽く会釈を返す。
接客している男は加賀藩に現地の情報を提供し、通訳としても雇われていた華僑の男性であった。
日本語に堪能で、英語も話せる。
過去に迫害を受けて両親を殺された彼は、いつか復讐を果たすことを願いながら、表向きは従順に、心の中では反発を抱えつつウェイターとして働いていたのだ。
瞬間、次郎の感覚がこう結論づける。
このパーティーに参加している加賀藩の面々は、実は入念な準備を整えた上で情報を収集していたのだ。
「なにせ、どうなさいました?」
ガウワーの声が響き渡る。その表情にはまだ余裕がある。
「まあ……それはさておき、貴国とわが国は国交がありません。また、わが国は独自に航路計画を進めております。貴国のご配慮には感謝いたします。しかし、必要がないので丁重にお断り申し上げます」
次郎の言葉にガウワーの眉がわずかに動いた。
「それなら、この機会に国交回復の交渉を進めてみてはいかがでしょう。確かにわが国は貴国との争いに敗れました。『鹿児島砲撃』や『下関作戦』の発生は非常に残念であり、その発端となった『生麦の惨劇』も、わが国の本来の意図とは異なるものでした」
『|薩英《さつえい》戦争』ではなく『鹿児島砲撃』。
『馬関(下関)戦争』ではなく『下関作戦(Shimonoseki Campaign)』。
さらに、『生麦事件』ではなく、まるで被害者として描かれる『生麦の惨劇(実際に該当のイギリス人は被害者であるが)』。
認識の違いだが、英語版のWikipediaには戦争に関する記述が一切なかった点を思い出した次郎であった。
「なるほど、それはそれは……」
次郎は、ガウワーがいきなり国交回復の話を直球で持ち出してきたので驚いたが、それは予想の範囲内だった。
「改めてお礼申し上げます。このたびの件、心より感謝いたします。感謝の気持ちだけではなく、かかった費用は全てお支払いし、ご尽力いただいた皆様には相応のお礼をいたします」
次郎は深く頭を下げた。
その横には、彦次郎、隼人、そして廉之助が随行している。隼人と廉之助は技術系の専門家だが、せっかくの機会なので、彼らにも経験を積ませるために同行させている。
いつのまにか歓待を受けていた前田慶寧が横におり、その隣には岡田雄次郎が控えていた。
会場には、加賀藩士の姿はすでに見当たらない。
どうやら、次郎が到着するのと同時に解散する予定だったようだ。
「え、……いや、ですからその件はお気遣いなく。人道的な観点から考えても当然です」
ガウワーは冷静に次郎の言葉を反すうし、じっくりと分析した。
しかし次郎には何もたくらんでいる様子はなく、むしろ飄々としている。そのためつかみどころがない。
「ああ……Mr.オオタワ相手に対して小細工は通用しないと理解していますし、そもそもそのつもりもありません。正直に申し上げますと、貴殿は生麦の件を受けて、わが国を文明国家とは名ばかりの虎狼の国(ころうのくに)だとお考えなのでしょうか?」
「……」
次郎はすぐには答えない。
「……その答えはYesでもNoでもありません。生麦の件を忘れろと言われても簡単にはできませんが、貴国が文明国でないとは言っていません。世界をリードする科学技術、そしてそれに支えられた軍事力や生産力には、学ぶべき点が多いと考えています」
勝った側が負けた側の軍事力を評価し、明らかに優位にある技術力も、あえて謙遜して言ったのだ。
「それならば……」
「それとこれとは話が別です。少なくとも現時点では貴国との国交回復の準備が整っていません」
「では一体、何が……」
無条件で引き渡しが行われているため、次郎がここで何かを交渉する必要はない。
イギリスからの一方的な申し出なのだ。
ご覧の通り、わが国は人道的にすばらしい国です。過去の出来事は忘れて、さあ、早く国交を回復しましょう。その代わりに……(インドやアフリカで豊富な支援をお約束しますよ)。
言葉には出さないが、それがガウワーの本音であった。
次回予告 第390話 『交渉の平行線――補給地の誘惑と日本の決断』

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