慶長三年九月一日(西暦1598年10月1日) 天津衛
「何だ、ヌルハチはおらんのか?」
三国戦争の調停のために渡海し、天津に到着した純正は、河間府にヌルハチがいないと知り、驚きを隠せなかった。
随行員はいつもどおり、戦略会議室のメンバーで構成されている。
「戦の最中に総大将がおらぬとは、何か国許で起きたのであろうか」
直茂が考え込んでいる純正に声をかけた。
「殿下、おらぬでは仕方がございませぬ。ここは河間府では挨拶のみとし、そのまま保定府へ向かいましょう。いずれにせよ、ヌルハチがおらぬでは女真は動けぬし、兵も守備兵の他はここにはおりませぬ」
ヌルハチと兵士がいないなら、兵士が必要な有事が発生したと考えるのが当然である。
近くにいた満州国の守備責任者に尋ねても、真実を話すとは思えない。
「うむ。然様であるな。他所の心配をしても始まらぬ。支度ができ次第保定府へ向かうぞ」
「申し上げます!」
「何事か!」
突然、在天津の情報省官僚の一人が駆け込んできたかと思えば、直茂の声を聞くと、姿勢を正して大きな声で伝えた。
「モンゴルが連合を組み、女真を攻めた由にございます!」
基本的に軍事を含む情報は、首都にある情報省を通じて純正に伝達される。
しかし、純正が移動する際はリアルタイムで情報を伝達できないのだ。この情報は、いったん諫早本部に届いた後、天津へ送られた。
「殿下、われらが何もせずとも、モンゴルが動いたようです」
「なんと、ふふふ。然様か。では話が早い。ヌルハチは和議に応じるであろう。問題は寧夏であるな。哱拝には会うていないが、はて、哱承恩はいかなる男かの」
は、と直茂が返事をする。
「哱拝ならびに哱承恩と面識があるのは外務省の対馬守殿(柳川調信)でございます。聞くところによりますれば、承恩は有能ではございますが、験が足りぬ(経験不足)ために、時に勢いに任せて動くきらいがあるとか」
経験不足で勇み足になるのは、誰にでもある。
かくいう純正にしても全くないわけではない。
周りを固める重臣たちが有能で経験豊富だったおかげで、大事には至らずに済んだのだ。
「然様か。こたびのモンゴルの挙兵、承恩の策であろうか。女真が退いてしまえば、明と戦をするにあたって苦労すると思うが……然らば何か考えがあってかのう」
「分かりませぬ」
直茂は静かに首をかしげた。
「然りながらこれまでは、寧夏と女真が手を組み、明を挟撃する形をとっておりました。然れど今、女真が撤退すれば、寧夏は一国で明と向かわねば(対峙しなければ)なりませぬ。加えて明軍は南下し、備えを固めた。民も立ち上がっております」
直茂の分析は非常に的確だった。寧夏は明との戦いで勝機を見いだしていたが、女真が撤退すれば状況は一変する。
いや、敗色が濃厚になるわけではない。
このまま南進を続けられなくなるからだ。
「然らばなおさら承恩は和議に応じるはずじゃ。このまま進めず、保定府に兵を留めておくのは、ただ費えがかさむだけじゃからの」
「仰せのとおりにございます。然ればこたびのモンゴルの儀は、族長どもが勝手に引き起こしたこと。かの者らも寧夏と盟は結んでいるものの、実入りがなく、この隙に女真をかすめ取ろうとしたのではないかと存じます」
「ふむ……然様か……。では、参ろう」
「はは」
純正はニヤリと笑い、直茂も笑った。
■慶長三年九月五日(西暦1598年10月5日)保定府
「陛下、肥前国の国王、小佐々平九郎様がお越しになりました」
「……うむ、お通しせよ」
承恩はその報告を聞いて、しばらく考え込んだ。
今、女真と協力して明を攻撃している最中だ。
兵力と士気の両面で味方が優位に立っており、このまま南下して真定府を攻略すれば、北直隷の天津衛を除く中北部を掌握できるのだ。
だが、ここに来て、ヌルハチの突然の退却と肥前国王の来訪があった。
そこには何らかの因果関係が存在するのか?
モンゴルの諸部族は、今回の明への派兵には一切関与していない。
しかし、相手は超大国である肥前国だ。
礼儀を欠いてはならない。
同盟を結んでいないとはいえ、父の代から交易をし、友好関係を築いてきたのだ。
「これはこれは、肥前国王、平九郎陛下。私は寧夏国の王、哱承恩です。天津衛は我が領土と隣接していますが、海を越えてのご訪問となると、何か特別なご用件があるのでしょうか」
無難な挨拶である。
承恩の声は穏やかであったが、その瞳の奥には警戒心が見え隠れしていた。背後に控える土文秀をはじめとする重臣たちも、純正一行の真意を測りかねている。
「互いにとって利のある話にござる。この戦もそろそろ引き際かと存ずるが、如何に?」
承恩は純正の言葉に対して眉をひそめた。
「引き際とは、どのような意味でしょうか」
「ヌルハチはすでに撤退の途にあると聞きおよびます。加えてモンゴル諸部族の連合軍が遼東に攻め入ったそうではござらんか」
純正の言葉に承恩の顔がこわばった。
純正は女真とモンゴルの動向を正確に把握している。
しかもおそらく、自分たちよりも。
そう判断したのだ。
「では、その件についてお越しになったのですか」
「いや、それは貴国とモンゴル、それに満州国の問題。わが国が口を出す筋合いはござらん」
純正は穏やかな口調で話を続けた。
「ただ、このまま南へ攻め進めば、明とは長戦となり申そう。明は南へ遷都して備えを固めた由。また、義勇軍の儀も考えますれば、明も簡単には崩れぬと案ずるが、如何に」
承恩は黙って純正の言葉に耳を傾けていた。確かに、女真軍の撤退により、明への攻勢は鈍らざるを得ない。
「では、何をおっしゃりたいのでしょうか」
「ただいま、貴国は保定府まで進み出でておる。明も開封に遷都し、備えを整えた。ここで和を結べば、互いに良い|塩梅《あんばい》ではないかと考えますが、いかがでござろうか」
承恩は側近の土文秀と目を合わせ、無言の意思を伝え合った。
「確かに、女真の撤退は予想外でした。しかし、ここまで来て引き返すわけにはいきません……」
「引き返す要はなし。ただ今の領土を、そのまま保てば良いのです。保定府を南の境とし、そこから北を貴国の領土とすれば良いではありませぬか」
純正の提案に、承恩は思わず身を乗り出した。
丁寧ではあるが、慇懃無礼ではない。
しかし、まるで戦後の論功行賞である。
大陸の領土を、まるで自国の領土であるかのように語っている。
「……ふむ。それであれば、我が軍にとって害はない。しかし、明が逆に攻めてこない保証はあるのでしょうか?」
「それは余が保証いたしましょう。もし貴国がそれにご得心いただいたならば、余はこれから開封府に向かい、万暦帝と会談いたします」
「承知しました。しかし、すぐに決断はできません。重臣たちとも相談したいが、よろしいか?」
「かまいませぬ」
寧夏・女真の対明戦線、休戦となるか。
次回予告 第856話 (仮)『開封府での会盟とモンゴル対女真』

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