「幸い挫滅している部分も少なく、壊疽の心配はありません。ただ、毒素が血を巡って五臓六腑を侵しております。持ち直したとしても、後は運を天に任せるしかありませぬ」
親父は一時は回復した。
起き上がれもしたが、また寝たきりになった。
医師はなかなか塞がらない傷口を水で洗い、包帯を取り替えて、止血と化膿どめの膏薬を塗り終えて、首を振りながら言った。
「は?! 何言いよっとや! 医者やろが! 治せや! 治すとが仕事やろがあ!!」
俺は医者につかみかかる。
平九郎! と母が俺の手を押さえて制す。母だってきついはずだ。
去年息子を一人なくしているんだ。この上で自分の最愛の人まで失う事があったら、生きる希望を失うだろう。
医者は一礼して部屋をでる。
「しかし母上! ……」
なおも収まらない俺が何かを告げようとすると、
「やかましいのお、おちおち寝てられんわ」
親父が目を覚まし、天井を見つめながら独り言を言う。
「目が覚めましたか!」
「あなた!」
身を乗り出す。頭の中のもやもやした黒い雲が晴れた。
「うむ」
「父上、ご無理なさらないでください」
起き上がろうとするので止めようとするが、親父はそれを手で制する。
すうぅぅぅ、はあぁぁぁ。深呼吸をした後で父は、
「平九郎、家督をつげ」
一言、静かに言った。
「え? いま何と?」
「なんども言わせるな。家督をつげと言ったのだ」。
「え? いやしかし、それがしはついこの前、元服をすませたばかり。それに父上はまだご存命で、元気になったではありませぬか」
頭がぐるぐるまわる。理解が追いつかない。家督だって?
「これが、元気に、見えるか? ……それに死ぬ前に家督相続など、珍しくもない。どこでもやっている。逆に、だからこそ、だ。医者も言っていたであろう? 運を天に任せるしかない、と」
親父の声に力はない。やはりつらそうだ。ゆっくり、しかしはっきりと続ける。
「初陣もこの前、立派に果たしたではないか。大将首まで取って」。
「あれは、その……。無我夢中で何も覚えておりませぬ」。
俺は照れ笑いを隠しながら言う。
「それから、な。先日言っておった産物の件な、あれはもうよい」
? どういう事だ?
「それはいったい?」
「わざわざ俺に見せなくてもいい。自信があるのだろう? ならばよい」。
しかし……、と言おうとした俺の言葉を遮って、
「良いのだ。これからはお前の好きにしろ」。
やはりつらかったのだろう。親父はもう一度横になる。
「吉野、すまないな。苦労をかける」。
母を見ながら、もう一度手を握る。
「本当です。でももう慣れました」。
すねたような母の言葉に、親父は微笑みを浮かべる。
「少し、平九郎と二人にしてくれないか」
母は少し残念そうだったが、はい、と静かに答えて立ち上がり、すすす、と部屋をでた。
「さ、い、かい……ばし」
え? なんだって? さ、い、西海橋!!??
「親父、今なんと?」
「西、海、橋の、アイスクリーム、そんなにおいしかったか?」
なんだ、いったい、どういう事だ?
「アイスが食べたい食べたいって、ダダをこねてただろう?」
「モナカから食べたり、ぺろぺろなめたり、かぶりついたり、三人ばらばらで」
ふふふ、と思い出して笑う親父。
おいしいけれど特別ではなく、味も普通のシャリシャリしたシャーベットみたいなアイスクリーム。
どういう事だ? この人はいったい何を言っているんだ? 誰なんだ?
「小学校の運動会の時、みんな持ってるからって、メーカー品のジャージが欲しいって、ダダをこねたよな」
小学校? メーカー? ジャージ? どれもこの時代の言葉じゃない。
「ごめんな、あの時は。お金が足りなくて上下セットじゃなくて、バラバラのメーカーの、しかも上はTシャツだけなんて」
なんだ、どうした? 俺のこの頬を伝っているのは涙なのか?
「そう不思議そうな顔をするな、武」
「おやじ、なのか? 本当に親父なのか?」
「そうだ、お前の父親だ。久しぶりだな。何年ぶりだ? ややこしいな」
とめどなく涙が流れた。前世の親父が死んだ時、もちろん悲しかったが、涙はでなかった。身内の死って、人の死って、こんなもんなのかな、と妙にドライだった。
それが、涙が止まらない。いろいろ聞きたいのに
「ぐすん、えぐっ、親父、おやじ、おやいs、うsじうsおやじ……」
嗚咽まじりで言葉にならない。
「俺も最初にこっちに来たときには驚いた。状況が飲み込めるまで時間がかかった。それでも当主になってからだったから、表立って俺を非難するやつはいなかった」
「色々と試しながらやってきたが、お前みたいに歴史の知識なんてないから失敗失敗失敗の連続さ。ましなのは木綿と帆船くらいだ」。
「とにかく、あとはお前の番だ。頑張ってくれよ、ご当主様。……少し、疲れた。寝るよ……」。
そう言って親父は再び目を閉じた。
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