元亀二年 五月九日
武田高信への仕置を終えた後、純正は鳥取城へ向かう途中で山名豊国への謁見を許し、但馬へ入った。塩冶高清が治める桐山城、芦屋城、長高連が治める林甫城がある。
「初めてご尊顔を拝し奉りまする、長越前守高連にございます。近衛中将様におかれましては、その威容いや増すばかり。祝着至極に存じ奉りまする」
「うむ。ありがとう」
父親が塩冶高清の父である塩冶綱高に謀殺され、林甫城を追われてもなお、城を取り返した知勇兼備の将である。
高清の父綱高は強欲で、領民や周囲の評判も良くはなかったが、当代の高清は文武両道でよく領地を治めている。
過去の遺恨はあっても隣同士である。水に流すことは無理だろうが、すでに当主が代わって本人ではない。争い事があった場合は争わずに上にあげるように伝えた。
因幡も但馬も守護である山名氏の支配力が弱く、群雄が割拠していた状態である。純正の政権下(日本を統一したわけではないが、便宜上)で山名以外は武装を解除した。
知行地も最低限、または無くしたので兵力はないが、日が浅い。中小の国人が声を上げれば、在地の武士が結束して山名を脅かす恐れもあったのだ。
吉川元春の策であったとは言え、今回のような国人の蜂起は今後は避けなければならない。余計な戦になる。
此隅山城にて山名祐豊に謁見を許す。衰えたとは言え秀吉の但馬侵攻を防いだのだ。祐豊のカリスマが、かろうじて山名の領国支配を成り立たせていたと言えよう。
「初めて御意を得まする山名右衛門督祐豊にございます。この度は遠路くれぐれとお越しいただき、恐悦至極。この右衛門督、喜びの至りにございます」
六十を超えているはずだが、年齢を感じさせない。
修羅場をくぐり抜けたオーラというものなのだろうか、甥の豊国も良い武将ではあったが、同じものは感じられなかった。
「右衛門督どの、山名は、因幡と但馬は大変だと思うがよろしく頼む。中務大輔殿には会うた。武田の件は処理しておいたので安心めされよ」
そう言ってねぎらいの言葉をかける。何であろうか、信長は信長の圧があり、天下人オーラがおびただしかったが、それとはまた違う。
誰であれ、一角の戦国武将なら似たような雰囲気を醸し出すのだろうか。
純正は自分にもそんなオーラが出ているのだろうか? という疑問を持ちながら、此隅山城を後にする。
本来ならそのまま南下して播磨へ向かい、山陽軍と合流しようと考えていたが、その前に播磨の動向が気になった。
信長の上洛以降は親織田派に傾いていたものの、包囲網に加わろうとする勢力もあったからだ。
赤井市郎兵衛殿
拝啓 立夏の折、市郎兵衛殿におかれては、ますますご健勝の事とお慶び申し上げ候。
にはかに文にて申し上げ候ふ事、お許しいただきたく存じ候。
さて今般、三年前の永禄十一年公方様を奉戴し、将軍宣下を事ならしめた弾正忠殿を仏敵と号する輩の多きに候。
われは今此隅城にありて西国の四道を治むるも、はなはだ疑問に思ひて候。
長島におひての弾正忠殿の行いは、良きことばかりはなきにと存じ候へども、号する輩の有様を推し量りなむ候。
黄白白金に宝を集めて女性をはべらせ、肉を食ひ酒を飲みては、およそ御仏に仕えるにふさわしくなき有様と存じ候。
自らの言と行ひの伴わぬ輩の言ふ事など、あだおろそか(いい加減な)なるものと存じ候。
市郎兵衛殿におかれては、そのような妄言に惑わされる事なきよう、思慮分別のある行ひを望みて候。
にはかなる文にてこのような事申し上げ候ふ事、お許しいただきたく、また重ねてご健勝をお祈り申し上げ候。
敬具
丹波は直接の接点はないが、赤井忠家の他に波多野秀治、内藤如安にも同様の手紙を送った。影響力はなくても、多少の抑えになればと思ったのだ。
勢力図としては織田家が優勢ではあるが、どう転ぶかはわからない。
美作においては毛利、小早川、三村の連合軍がほぼ制圧したと報告が入っている。じきに越境して播磨へ入るとのこと。
その播磨の情勢は、当初は赤松が若干優勢であった。
単純に直轄地の石高で考えても赤松のほうが上であるし、旧配下の国人衆をうまくまとめあげ、純正が仕置をする前の状態とほぼ同じ状態だったのだ。
そんな中、いったん反乱軍に傾きかけた小寺政職であったが、官兵衛の強い進言で純正方に転じ、そのため赤松義祐の総攻撃を受けることとなる。
英賀城の三木通明とともに御着城を攻めたてる義祐であったが、その勢いも長くは続かなかった。
小佐々海軍の艦艇の主力はほとんど南方に出ていたが、小型艦艇は残っていた。あわせて能島、因島、来島の水軍と、塩飽や真鍋、日生の海賊も参戦していたのだ。
まず海軍の小型艦艇による、沿岸部の加里屋城や室山城への艦砲射撃が行われた。艦は旧式で小型、砲門数も少ないが新型の大砲を搭載し、威嚇するには十分であった。
その後陸軍部隊が攻めかかり、後発の部隊とも合流して再度攻撃をしかけると、たまらず降伏したのだ。主だった将がおらず、城代のみでの防戦というのも敗因のひとつであっただろう。
第一、第二軍あわせて二万七千の兵が沿岸部を席巻し、三木氏の英賀城へと向かう。
御着城を攻めている赤松義祐と三木通明がその報を受けたときには、すでに英賀城は包囲され、毛利・小早川・三村連合軍は播磨に入っていた。
(利伸)別所定通や宇野政頼が治める諸城を攻略している頃である。越境し、南下して播磨へ入る純正の元には続々と勝利の報告が入ってくる。
しかし純正が、もうあと一月もかからないうちに全て平定して終わる、と考えていた時に、驚くべき報告が入った。
発 純正 宛 近衛中将
秘メ 二俣城 陥落 セリ ソノ上 徳川 三方ヶ原ニテ 敗退セリ 徳川 浜松マデ 退キテ 九死二一生ヲ 得ルモ ソノ報セヲ受ケ 織田ニオヒテハ 兵ノ 逃散 著シク 士気ノ 下ガリシ事 甚ダシ 秘メ
発 連合艦隊司令部 宛 総司令部
秘メ 我 イスパニアト 交戦セリ 敵艦隊 撃滅スルモ 艦隊ノ 被害 甚ダ多シ 旗艦 金剛 榛名 比叡 沈没 ナラズトモ 大破セリ 古鷹 天龍 青葉 衣笠 木曽 五十鈴 名取 灘風 矢風 羽風 撃沈 セリ ソノ他 艦艇 中小破ナリ 陸軍 奮戦シ 敵 上陸軍 撃退 スルモ 城門 大破ナリ 秘メ
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