同年 十一月 岸岳城
「いまこそ龍造寺を攻めるときにござる!」
そう声をあげ家臣の論調をまとめようとしているのは、先代の後室、真芳の方の怒りを被って主流派から遠のいていた、有浦大和守高である。
「今、龍造寺は須古城攻めに手一杯のはず。神代や筑紫に抑えの兵をおいておるゆえ、われらが攻めいったとてすぐには動けまい。龍造寺方の千葉城を攻めれば、須古に詰めている隆信の軍と、神代・筑紫に向かわせている北東方面軍との間を断つことができよう」
「大和守殿、机上ではそうであろうが、戦は生き物にござる。それに龍造寺には鍋島直茂なる切れ者がおります。なんの備えもなしにこたびの須古攻め、行うとは思えません。今動けば、間違いなくわれらは龍造寺の敵になり申す。平井が滅んだら、次はわれらですぞ」
そう反論するのは、重臣の日高資である。現当主の藤堂丸派ではなく、前当主の弟、波多志摩守の息子三人のうち誰かを候補に、とする派閥の長であった。
要するに家中の主導権争いである。
藤堂丸は波多鎮として元服して当主の座にあるものの、反体制派の重臣を粛清しきれてはいない。
「そもそも、わが波多家は嵯峨源氏渡辺氏の流れをくむ名家であり、上松浦党の長でもある。成り上がりの龍造寺の風下に立たねばならぬ言われはない」
と、有浦が言えば、
「この期に及んで上松浦党の長ですと? そのような集まりの長など、今となってはないに等しいではありませんか? それに戦は家格でするものではございませぬ。やれば、負けまするぞ!」
と日高。
「なにを! 臆したか? 始めからそのようなことを申しては、勝てる戦も勝てませぬ。皆の衆そうではないか??」
両者、一歩も譲らない。
「皆の者、静まれ。二人の言い分どちらも至極最も。しかし私はどちらかに決めねばならぬ」
鎮は、場にいる家臣に気取られぬよう隣に目をやる。
「……決めた。私は龍造寺を攻めるぞ。皆の者支度をせよ!」
隣には先代の後室、真芳がいた。完全に言わされている。
もともと有馬氏から迎えた養子の鎮であったが、それは有馬氏の後ろ盾を得るためだった。盛の死による家の弱体化を防ぎ、龍造寺をはじめ周辺勢力から家を守るためである。しかし今、その有馬が落ち目だ。
ここで龍造寺の勢いをそいでおかなければ、先は明るくない。
全員が主殿から下がった。
(まずい、これで波多は終わりだ。先はない。先代には恩があるが、わが身は大事、命には代えられぬ)
一瞬見せた真芳の方の、蛇の眼のような視線を資は見逃さなかった。
「喜、至急支度せよ。波多を出る。志摩守様にも使いを出せ。あの方は何も言わずともわかってくださる。急げよ」
「はは! 父上の仰せのとおりにいたします」
波多が龍造寺攻めに出発する際、日高資・喜の親子一族、志摩守とその息子家族の姿はなかった。
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