永禄十二年 十一月一日 諫早城
純正の誤算が二つあった。それはスペイン軍の兵力の過小評価と、友好条約を結んだ勢力が、各地域の主力の王ではなかった事だ。
スペイン軍の兵力は三百、多くても五百程度だと予想していた。
多くても五百なら、三千の駐屯部隊で十分対処が可能だ。歩兵で比べても、三倍から五倍の差があると見ていた。しかし現実にはそうではなかった。
友好条約を結んだ首長は、当然のことながら反スペインなのだが、それ以外の親スペイン(和平締結済)の勢力もまた、大きかったという事なのである。
スペインは征服をする際、常に多くの協力者を帯同させていた。道案内などというものではなく、十分に兵力に該当する多数の住民の協力者がいたのだ。
住民志願兵と呼ばれる彼らは、その前に制圧された地域の住民で編制されていた。例えばレイテ島の制圧にはセブ島の住民を使っていたのである。
いわゆる乱取りを奨励していたのだ。乱妨取り(らんぼうどり)とも言われるこの行為は、現代でいうところの略奪行為である。
戦国時代は農兵が多く、食糧の配給などの理由で、戦地での掠奪が黙認されていた。
純正が行っていたように、足軽に俸禄をもって報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは「乱妨取り」を取り締まり、実行していたものには厳罰を課した。
要するにその乱妨取りと全く同じことが行われていたのである。制圧された集落では、戦国時代の日本と同じで勝ちの総取りである。勝者が敗者のすべてを奪っていた。
そこで協力した住民志願兵は、戦利品のおこぼれがある。少数のスペイン人が大砲と鉄砲で脅して圧倒すると、住民は最後には大抵逃げ出すという。
同行したよそ者現地民が襲いかかり、殺戮や略奪、婦女子の拘束などやりたい放題をする。そして残りの戦利品をかき集めるのだ。
こういうやり方で、スペインは兵力不足を補い、周辺勢力を制圧してきた。
それに対抗すべくセバスティアン一世に、東インド(東南アジア、東アジア)での攻守同盟と交易協定を要望する親書を送った。
また、現地人との意思の疎通を円滑にするために、松浦九郎親は練習航海に同行し、他数名の通訳を含めて学習した。
その親が一年の航海を終えて戻ってきた。ポルトガル語とスペイン語に関しては小佐々領内でも学べるが、マレー語とタガログ語に関しては現地でないと学べない。
また、現在使用されている四分儀やその他の航海機器の開発や天文学への投資も忘れない。
領内はもちろん、琉球や台湾、マカオ、フィリピン、富春、アユタヤ、マラッカ、バンテン王国にも許可を得て、天文台や観測所を設けている。
小佐々領内でも観測は続けているが、完全に旧暦から変えるわけにはいかない。そしてユリウス暦もあと13年後にはグレゴリオ暦に変わるのだ。
純正が命じて新しい暦をつくったらSUMIMASA暦とでもなるんだろうか?
親愛なるセバスティアン一世陛下
日の下における九州王、小佐々純正です。現在私は東インドのメニイラ(マニラ)において、多様な民族とともに共生の道を歩んでおります。
陛下に対して深い敬意と感謝を持ちつつ、この国書をお送りいたします。
近年のイスパニアの進出により、ビサヤ、ミンドロ、ミンダナオ、レイテをはじめとした数多の島々の民が苦しむこととなりました。
我が共生の地マニラは、今はスペインの影響を受けておりませんが、その脅威は日に日に増してきています。
このような状況の中、私たちは自衛の必要を感じており、そして陛下の権益保護の観点からも、スペインに対抗する同盟を結ぶことの重要性を認識しております。
陛下、私たちと共にこの地域の平和と安定のために力を合わせていただきたく、心よりお願い申し上げます。
陛下のご健康と王国の繁栄を心よりお祈りいたします。
小佐々純正
今までに3回、1562年、1565年、1568年と送っている。今年の8回目の遣欧使節は5月に出ているので、特別便だ。トーレスに頼んで手紙を添えてもらった。
そう言えばトーレスは体調がすぐれないようで、インドのゴアにいる管区長に、次の責任者を依頼している。体には気をつけて養生してほしい。
次はたしか、フランシスコ・カブラル。くせものだ。
しかし、ポルトガル国王がスペインを敵にまわして同盟を結ぶだろうか? と純正は考えている。
もし結ばなければ、最悪スペインとの関係に介入してほしくはない。
実際のところ、1494年にポルトガルとスペインとの間で結ばれていたトリデシャス条約では、ヴェルデ岬諸島の西の西経46度37分が子午線となっていた。
ざっくり言うとその東をポルトガル、西をスペインというわけだ。
しかし、東南アジアについては不明瞭であった。
フィリピンはスペイン人のフェルディナンド・マゼランがポルトガルより先に西廻りで発見し、その後も継続的に探検隊が派遣されている。
その航海はもともとは香料諸島を目指すためのもので、結果的にフィリピンが見つかったというわけだ。その両国の権益をめぐって様々な争いが生まれた。
その後のサラゴサ条約締結時点では子午線は東経133°前後になったが、採算のあわないモルッカ諸島での権益をスペインは諦めたのだ。
ただし、フィリピンに関してはこの条約では言明されていない。
書かれていないとはいえ、サラゴサ条約で定めた子午線のはるかに西にあるので、暗黙的にはすでにフィリピンの領有を放棄したことになる。
しかし史実では、時のスペイン王カール5世は、フィリピンには香辛料がないのでポルトガルからの強力な反発はないとかんがえ、1542年の植民地化を決定したのだ。
この時は失敗したが、息子のフェリペ2世(現在)は1565年に植民に成功した。
このままいけばマニラに初の交易所を設置して、ガレオン貿易を始めるのだ。史実ではポルトガルの反対は少なかった。
これでは、ダメだ!
そう考えた純正は、手紙の『結ぶことの重要性を認識しております』のあとに一筆加える事にした。
また、イスパニアはすでにヌエバ・エスパーニャとマニラ諸島を往来する航路を開拓しております。それによって東インド、明、朝鮮、日の本の品々がイスパニアに渡るでしょう。
それはすなわち、イスパニアの勢力の拡大となり、陛下の王国の将来性に深刻な脅威をもたらす事でしょう。
イスパニアの貿易による富の増加は、モルッカ諸島をはじめとする東インドの陛下の権益を奪い去る恐れがあります。
これでいい、できることは全部やる、そう考え、修正を加えて何度も書き直した親書を送った。
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