第548話 織田と一揆と、隠尾城と千代ヶ様城

 天正元年 四月二日 未二つ刻(1330) 庄川西岸(二塚村) 道雪本陣 曇りときどき雨

「申し上げます! 一条隊が布陣を終え、龍造寺隊は千代ヶためし城に掛かりけり(攻撃した)候!」

 道雪の本陣とわかれ南へ向かった二隊も、一条隊は布陣し、龍造寺隊は城攻めを開始したようである。

「うむ。謙信の勢はおらねど、千代ヶためし城に壇の城、隠尾かくりょう城に鉢伏山城がある。虚を突かれぬよう伝えておくのだ」

 本陣の後ろに設置された信号塔から順次一条隊、そして龍造寺隊に指令が送られる。

「ふふ、御一門とはいえ、龍造寺のご当主はまだ十六。然りとて脇に控えるは成松遠江守(信勝)に百武志摩守(賢兼)、江里口藤七兵衛尉(信常)と円城寺美濃守(信胤)であるからな。いかようないくさをみせるか」

「龍造寺家は、打ち合いとうはない(戦いたくない)家にございますな」

「わはははは! いかにも。然れど幸いな事に左様な事にはならぬ」

「時に道雪様、以後は如何様いかようにになさるので? このまま川のこちら側にて、各隊の報せを聞き、下知をくだすのみにございますか?」

「うむ、それについてはいささか考えがあるのだが、こればかりは天の赴くままとなろうからな」

「如何様な謀に?」

「ははは、謀などではない。至極心幼し(単純な)事ゆえな」

 道雪は紹運に耳打ちをし、悟られぬように全軍に準備をさせた。

 

 ■庄川東岸 吉久新村 

 島津先陣の伊東隊、それを迎え撃つ上杉軍の新発田隊を含めた右翼との戦いは、序盤は伊東隊が有利にすすめていた。

 その後、包囲殲滅せんめつを図る上杉軍右翼の攻勢に伊東隊は劣勢となるも、陣を立て直し、包囲を免れた。

 しかし、背後から放生津ほうじょうつ城の伏兵が、伊東隊を再び包囲しようと動き出したのだ。

 道雪本陣からの通信で、いち早く情報を知った義弘は肝付隊を渡河させ、放生津隊による包囲を阻止する事に成功した。

 兵力が拮抗している中、島津の先陣二千が上杉軍の左側面を突く。

 一方の上杉軍も、放生津兵との挟撃を試みるべく新発田長敦隊を後退させ、中翼中陣の中条隊のうち千を投入した。

 先陣中翼の小島隊二千をさらに加え、島津の二千を攻撃したのだ。

 疲労の色が見えてきた伊東隊、側面攻撃を受けた上杉軍先陣右翼の柿崎隊の損害が増える中、二刻(4時間)が過ぎた。

 膠着状態となった両軍は、いったん距離をとり、仕切り直しをするかのような様相を呈していた。

「次郎三郎殿(山田宗昌)、ご無事か」

「なんのこれしき。然れど、かたじけのうござる」

 伊東家家老の山田宗昌と荒武宗並である。

「礼には及ばぬ。然りとて、これよりいかがいたす? 上杉の軍兵は目の前におるが、勢(兵力・勢い)はわれらと変わらぬ。周りには身を隠す林もなければ、見渡しの良い陸地ろくじ(平地)ばかりぞ」 

 宗並の問いに宗昌が答える。

「うむ。渡河しておる我ら島津隊は七千、対して敵も七千となる。上杉の本隊からは離れておるが、再び打ち合えば(戦闘になれば)必ずや本隊から後詰めが来よう」

「左様。道雪殿の本隊は川も深く、渡河に気付かれれば、騎兵にて掛からるる道程(攻められる距離)にあるゆえ、おいそれとは渡れぬ事の様(状況)であるからな」

「三好隊が渡りきったならば、われらと合わせれば、二万七千となりて数で上回る。然れど一里五町(約4,500m)離れておる。敵が我らと三好隊とのつながりを断とうといたせば、再び勢(兵力)は同じとなろう」

「そうよの。然れど敵の動きはわからぬとも、兵庫頭殿(島津義弘)にはすみやかに全軍にて渡河していただこう」

 伊東隊、肝付隊の意向をうけ、義弘は準備の出来た隊より渡河を開始した。

「ん、雨か?」

 

 ■岐阜城

「申し上げます! 越前にて一揆にございます!」

 伝令が息を切らせながら報告に来た。

「なんと! 何故なにゆえじゃ?」

 家老の村井貞勝が問い詰める。

「は、はじめは坂井郡と加賀国江沼郡の村同士での水の利や、塩屋の湊でのいさり場(漁場)のいざこざが始まりにございました。もとより一向宗の門徒が多き地なれど、これまでもたびたびいさかいを起こしておりましたゆえ」

「ふむ。守護代殿はいかがなされておるのだ?」

 越前制圧後、その功績により朝倉の旧臣である、前波吉継あらため桂田長俊が守護代として統治していた。

「桂田九郎兵衛尉様(桂田長俊)が扱う(仲裁する)も……甲斐(効果)なく、その、言い難き事なれど、九郎兵衛尉様は……あまり民の信を得ておりませぬ。悪名もたびたび耳にいたしまするゆえ……」

「ええい、もう良い。ご苦労であった、下がるがよい。殿、いかがなさいますか?」

「うむ、そうであるな。然れど、この責を問うて守護代の力なしと断ずるは、いささか早いの。今一度機会を与えるといたそう。九郎兵衛尉に申し伝えよ。今一度試み、見事一揆を扱いて(仲裁して)見せよ、と。それでも成らぬなら、是非もなし。一揆の者どもは根絶やしにせよ」

 信長は、居並ぶ家老を見渡したが、誰も異を唱える者はいなかった。一切の権限を守護代に任せ、その裁量をもって一揆の鎮圧を命じたのだ。

 

「猿、これでよいか」

「は、今織田家が取るべき道はこれしかないかと」

「うむ。あまり、好まぬが、致し方なかろう」

 

 ■庄川上流東岸(湯山村~隠尾城途上の神明宮) 

「隠尾城は北以外は険しい崖になっており、攻めるには北よりほかありませぬ。主郭は南北十六間(29m)、東西十一間半(21m)の狭き城故、千のうち数百は城に至るまでの山間に潜ませておるでしょう」

 

「お主の言うとおりであったな。一刻も経つというのに、まだ半里(約2km)も進んでおらぬではないか。ゆるりとは言うたが、ちと遅すぎはせぬか?」

「急いてはなりませぬ。この上は調略など能いませぬゆえ、刻がかかっても力で掛かる(攻める)しかございませぬ。こちらの神明宮でしばし憩うた後、ちくちくと(少しずつ)でも進んで参りましょう」

「あいわかった」

 二万の大軍が、幅一間半(約2.73m)の一里弱(約4km弱)も続く狭い山道を登るのである。

 予想通り上杉軍の伏兵にあい遅々として進まない。このままだと夕暮れまでに着いたとしても、城攻めは明日の朝以降になる可能性が高かった。

 

 ■庄川上流東岸(千代ヶ様城)

「押せ押せ押せ押せい!」

 千代ヶ様城の西の郭からと南東の郭から同時に攻めているのは龍造寺純家隊である。

 本隊である純家は山の麓に陣取り、西郭からは相神浦松浦隊の五百、南東郭からは伊万里隊の五百が果敢に攻めている。

 城の南側に東西に走る山道の、曲がり角の幅が広くなったところに波多の千が陣取って、後詰めとしているのだ。

 ポツ、ポツ……。

 

 ■第三師団、陸路にて北信濃の平倉城へ。4/5着の予定。
 ■第二師団、吉城郡塩屋城下。
 ■第四艦隊、出羽田川郡鼠ヶ関港。
 ■上杉軍城生城別働隊、喜右衛門。行軍中。
 ■杉浦玄任、隠尾城攻めのため山道を行軍。
 ■島津(伊東)軍、膠着状態。
 ■島津(肝付)軍、同上。
 ■島津本軍、渡河中。
 ■三好軍、庄川西岸枇杷首村より全軍渡河中。
 ■立花軍、二塚村。渡河を諦め待機中。
 ■一条軍、大田村。渡河の準備。
 ■龍造寺軍、庄村。千代ヶ様城、攻撃。
 ■謙信、庄川東岸にて待機、膠着状態。
 ■(秘)○上中
 ■放生津城の伏兵二千、膠着状態。
 ■(秘)○○行軍中

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