人物紹介

 ※()内の年齢は1837/1/6時点の年齢(数え)です。
 ※随時更新します。
 ※印の人物は実在の人物ですが、作中では史実とは違う行動思想かもしれません。

 太田和次郎左衛門武秋(15)1822生まれ。
 本作品の主人公。前世名は清水亨(50)。友人数名との飲み会で深酒して急性アルコール中毒で死亡。幕末に転生。肥前大村藩士の息子として生まれ変わる。重度の歴史オタクである。

 太田和佐兵衛武豊(43)
 武秋の父。在地領主として村を治める。言葉数は少ないが、やるときはやる。

 太田和一進斎(68)
 武秋の祖父。地元の名士的な存在。

 妙(40代)
 太田和家女中頭。気さくな性格。

 静(15)
 武秋の妻。前世の片思いの女性と瓜二つ。芯の強い女性だが、か弱いところもある。

 千代丸(1)
 生まれたばかりの嫡男。

 山中信之介(15)
 武秋の幼なじみで中浦村二十石扶持。転生者?

 藤田助三郎(20)
 太田和家に代々仕える藤田家の次男。長男は館勤め。博識。

 藤田角兵衛(19)
 助三郎の弟。武芸全般が達者な力自慢。

 大村純顕(15)※
 肥前大村藩第十一代藩主で純熈の兄。武秋を藩政の舞台に引き上げ、富国(領)強兵を目指す。職制改革・知行制改革、商業流通統制など、様々な藩政改革を行なった。

 大村純熈(7)※
 肥前大村藩第十二代(最後)藩主。蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。洋式軍事技術を藩士に学ばせ洋式軍備を導入する。

 河野十兵衛(31)
 信之介の従者。

 大村五郎兵衛昌直(37)※
 大村藩一門で両家と呼ばれる。五郎兵衛系。 千四十石九斗二升取り。(反・次郎)

 大村彦次郎友彰(22)※(親・次郎?)
 両家、彦右衛門系一門。八百四十六石九斗六升。

 渋江右膳(55)※(反・次郎)
 家老。三百石取り。

 北条新三郎昌盛(39)※(親・次郎?)
 家老。二百石取り。

 稲田又左衛門昌廉(49)※(親・次郎?)
 家老。二百石三斗三升。

 冨永鷲之助(23)※(親・次郎)
 城代。二百六十石二斗九升取り。彼杵外海雪浦村に二百十石の知行地あり。城の上役の中では唯一次郎左衛門武秋と親交あり。

 尾上一之進(尾上一之・15)
 タイムスリッパーで、信之介の夢の中での大学の同期生。医学部卒業で外科医。ダブルボード所持者。

 お里(15)
 20~21世紀からの転生者で10年前に庄屋の娘として転生。結婚が嫌で身を投げたところ、下流で次郎達に助けられ、行動を共にする。次郎の?

 高島秋帆(40)※
 幕末の砲術家で高島流砲術の創始者。長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれ、長崎会所調役頭取となる。

 大浦慶(お慶・9)※
 幕末から明治にかけての女性商人。日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ・道永栄(肥後天草出身)と並ぶ長崎三女傑のひとり。

 鍋島茂義(38)※
 肥前国佐賀藩士。武雄鍋島家9代当主。28代佐賀藩自治領武雄領主。鍋島直正の義兄である。高島秋帆の門弟にして西洋式砲術や科学技術の研究を行った。幕末期の佐賀藩の高度な軍事力・技術力開発の礎となった。

 鍋島直正(23)※
 肥前佐賀藩の10代目藩主。藩財政改革をはじめ諸改革に取り組む。洋式軍隊・科学技術の導入開発を行い、嘉永5(1852)年には洋式鉄製大砲を日本ではじめて製造する。軍備の強化に務め、公武合体も斡旋した。

 平山醇左衛門(29)※
 武雄領主鍋島茂義の命により、長崎の高島秋帆に学び、他藩に先駆けて西洋の技術を佐賀にもたらした。佐賀藩において本格的な軍事改革が進められたが、高島をめぐる疑獄事件のさなか、34歳という若さで打首となった。

 奥川嘉十(18)※
 嘉永四年(1851年)に陶磁器の卸問屋『奥川商店』を創業。作中では次郎に命じられ、耐火レンガの製作に携わる。

 江川英龍(37)※
 江戸末期の韮山代官として駿河、伊豆、甲斐、武蔵、相模にわたる9万石の天領を統治。殖産興業や賄賂の厳禁などの施策を徹底し、領内を富裕にした。海岸の防御を重視し、海防建議書を多く上程した。しかし、洋学嫌いの目付鳥居耀蔵との対立により蛮社の獄に巻き込まれた。その後も兵制改革案や海防策の転換を提唱したが、幕府からは無視された。最終的にはペリー来航後に海防や外交の中心として活躍するが、安政2年に急逝

 高野長英(33)※
 幕末の蘭学者。1838年モリソン号渡来のうわさを知り、『夢物語』を著して幕府の撃攘策に反対したが,翌年蛮社の獄が起こり崋山とともに逮捕され,幕政批判の罪で永牢の判決をうけた。44年(弘化1)放火脱獄して江戸市中に潜伏48年に捕吏に襲われて自殺した。

 渡辺崋山(44)※
 江戸後期の画家、洋学者で三河国(愛知県)の人。田原藩士。江戸詰の年寄役末席となり海防係を担当。高野長英らと尚歯会を結成して洋学を研究した。モリソン号事件に際し『慎機論』を著わして蛮社の獄に連座。国許に蟄居中に自殺した。

 江頭官太夫(43)※
 城下給人における小給であったが、大村純顕の抜擢で130石を加増され家老となる。主に海防を担当した。

 鍋島茂真(25)※
 肥前国佐賀藩の執政。須古鍋島家13代当主。弟の10代藩主・鍋島直正を25年にわたり補佐した。

 深澤太郎勝行(18)
 大村藩士城下小給の本家である深澤義太夫(※)の分家。40年前に廃業した鯨組の復興を次郎に頼まれる。

 怜(1839~)
 太田和家長女

 太田和隼人武賢(12)
 次郎左衛門武秋の弟で太田和家の次男。兄同様に優秀で、五教館を首席で卒業する。

 立石昭三郎兼近(15)
 高島秋帆門下生。卒業して大村藩の火術方となるが、五教館の教授としてオランダ語を教える事となる。

 長与俊達(49)※
 大村藩医、匙医(藩医の最高位)。長与専斎の祖父であり、一之進と衝撃的な出会いをする。

 水戸斉昭(38)※
 徳川御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父。藩政改革に取り組み、倹約の徹底、軍制の改革、追鳥狩、藩内総検地などを実施した。

 佐久間象山(36)※
 幕末の学者。開国論者。信州松代藩士。名は啓(ひらき)、大星。通称は修理。象山は号で、一説に「ぞうざん」。佐藤一斎に師事、朱子学を修め、また蘭学・砲学に通じ、西洋技術の摂取による産業開発と軍備充実を唱える。

 楠本イネ(10)※
 日本の女医で、現在の長崎県長崎市出身。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。

 松林廉之助(-2・飯山)※
 60石。肥前大村藩(長崎県)藩儒。安積艮斎(あさか-ごんさい)に師事し、昌平黌(しょうへいこう)にまなぶ。五教館学頭となり、松本奎堂(けいどう)らと双松岡塾をひらいた。藩にあっても尊王派として活躍したが、慶応3年1月3日佐幕派藩士に暗殺された。

 二宮敬作(33)※
 江戸後期の蘭方医。伊予国宇和郡磯崎浦(愛媛県保内町)生まれ。シーボルト門下生。シーボルト事件に連座し、長崎から所払いを命ぜられ郷里に帰った。宇和島藩主伊達宗紀に認められ、卯之町で開業。外科手術にすぐれた名医として。シーボルトの娘であるイネの養育者。

 石井宗謙(41)※
 蘭方医。シーボルトに学んで、天保(てんぽう)3年に美作(みまさか)(岡山県)勝山藩医となる。その後開業し、シーボルトの娘楠本いねに産科を教えた。イネとの間に娘たかを設けた。

 田中久重(38)※
 江戸後期-明治時代の技術者。筑後(ちくご)(福岡県)久留米の鼈甲(べっこう)細工師の子。幼年から発明の才にすぐれ、からくり儀右衛門とよばれる。無尽灯や万年時計を製作。佐賀藩で蒸気機関や大砲の製造にあたる。明治8年東京銀座に電信機製作の田中工場(東芝の前身)を創立した。

 岩倉具視(12)※
 公卿であり政治家で、京都出身の人物。号は対岳で、岩倉具慶の養子。公武合体を提唱し、和宮の降嫁を進めたことから四奸の一人とされ、文久二年(1862年)に官職を辞した。その後は討幕運動に参加し、明治維新後には重要な役職を歴任。特命全権大使として政府首脳を率いて渡欧。また、征韓論に反対し、欽定憲法の制定を主導した。

 村田蔵六(大村益次郎・12)※
 幕末の政治家で、周防出身。町医者の息子として生まれ、宇和島藩や幕府で働いた後、長州藩に仕えた。長州征伐や戊辰戦争で軍事的才能を発揮した人物。明治維新後は兵部大輔として近代兵制の構築に尽力したが、反対派によって暗殺された。

 緒方洪庵(37)※
 江戸時代後期の足守藩士であり、医師であり、蘭学者であった人物。名前は|惟章《これあき》または|章《あきら》で、字は公裁、号は洪庵のほかに適々斎、華陰とも称された。大阪に適塾(大阪大学の前身)を設立し、多くの人材を育てた。また、天然痘の治療に大きく貢献し、日本の近代医学の先駆者とされている。

 大和田彦次郎武光(9)
 太田和家の三男で次郎と隼人の弟。勉強は普通だが剣術が得意。

 大村武純(1845~)※史実ではもっと後に生まれたとされる。
 甲吉郎。大村純顕の次男。長男が死亡したため嫡男となる。

 伊東玄朴(37)※
 寛政12年(1801年)、肥前国(現佐賀県神埼市)で生まれ。佐賀藩士の伊東家の養子となる。長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトからオランダ医学を学び、その後江戸で佐賀藩医として活躍。特に、嘉永2年(1849年)に牛痘種痘苗を日本に導入し、種痘法を広めることに成功した。

 大島高任(12)※
 文政9年(1826年)に盛岡で大島周意の長男として生まれた。江戸と長崎で蘭学、特に医学や採鉱術を学び、嘉永6年(1853年)に水戸藩主の依頼で那珂湊に反射炉を建造し、大砲の鋳造に成功した。さらに、安政4年(1857年)には日本初の商用高炉を建設し、日本近代製鉄の父と称されるようになる。

 手塚律蔵(16)※
 1822年 ~ 1878年。幕末から明治初期にかけて活躍した日本の洋学者、外交官。本名は謙で、瀬脇良弼、瀬脇寿人とも呼ばれた。父は医師の手塚治孝、母は瀬脇氏。17歳から長崎で砲術を、21歳から江戸で蘭学を学んだ。

 杉亨二(10)※
 文政11年8月2日(1828年9月10日)から1917年(大正6年)12月4日まで生きた人物で、日本の統計学者、官僚、啓蒙思想家、法学博士として知られる。「日本近代統計の祖」と称される彼は、初名を純道(じゅんどう)といい、号を柳樊斎としていた。

 上野俊之丞(48)※
 上野彦馬の父。

 上野彦馬(-1)※
 天保9年(1838年)、長崎で蘭学者の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾で学び、安政5年(1858年)に舎密試験所で化学を学ぶ。文久2年(1862年)に故郷の長崎で上野撮影局を開業し、坂本龍馬や高杉晋作などの肖像写真を撮影した。

 山川宗右衛門(7)※
 156石余。針尾九左衛門の命令で江戸へいき、純熈の近習となる。倒幕派?

 針尾九左衛門(14)※
 406石余。元治元年十月に大村藩家老となる。倒幕派?

 橋本勘五郎(16)※
 文政5年(1822年)、肥後藩種山村(現・熊本県八代市)で生まれ。兄弟と共に多くのアーチ型石橋を建設し、特に霊台橋や通潤橋が有名。明治政府に招かれ、宮内省土木寮で万世橋や浅草橋などを建設。熊本に戻ってからは明八橋や竜門橋の建設を指揮した。

 賀来惟熊(42)※
 1796年生まれ。豊前国宇佐郡佐田村(現・大分県宇佐市)の庄屋で、島原藩に仕える。林業の推進と共に、帆足萬里から学び、大砲製造の重要性を認識。日本初の反射炉を佐田神社に完成させ、大砲を鋳造。俳優の賀来千香子と賀来賢人は子孫である。

 ヘルハルト・ペルス・ライケン(28)※
 オランダの海軍軍人。1855年にスームビング号艦長として来日し、この艦は観光丸として日本初の蒸気船となった。約2年間、長崎海軍伝習所で航海術と運用術を教え、勝海舟らを指導した。帰国後は海軍少将、外交顧問、海軍大臣を務めた。

 ヘンドリック・ハルデス(23)※
 1815年にオランダ・アムステルダムで生まれ、19歳でオランダ海軍に入隊。長崎海軍伝習所総監の要請で大型船造修所の建設要員として来日し、1857年に咸臨丸で長崎に到着。浦上村淵字飽の浦に製鉄所を建設し、1861年に完成させた。

 ヤン・カレル・ファン・デン・ブルーク(24)※
 1814年オランダ生まれ、医学教育を修了後、アーネムで医師として働き始めた。1852年にオランダ領東インドに渡り、後に出島で勤務。長崎では多くの技術分野で貢献し、日蘭辞書の作成や写真術の教育にも携わった。

 稲田東馬(又左衛門、才八郎、4)※
 250石。家老稲田又左衛門の養子にて嫡男。適塾留学。

 浅田千代治(8)※
 家老浅田弥次右衛門の弟。適塾留学。

 松田洋三郎(4)※
 159石。適塾留学。

 長井兵庫(10)※
 50石。適塾留学。

 土屋善右衛門(12)※
 110石。適塾留学。

 長与俊之助(幼名は創作・専斎・0)※
 長与俊達の孫で医者。適塾や長崎の伝習所で医学を学び、長崎医学校の頭取となる。遣欧使節団に参加し、内務省衛生局の初代局長となって伝染病予防や上下水道の整備を行った。『衛生』という言葉をつくった。

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