第15話 『西洋学の大家、高島秋帆との出会い』

 天保八年 三月二十六日(1837/4/30) 長崎会所(貿易所)調役(監査役)詰所 太田和次郎

「御免候! 御免候!」

 先触れを派遣していたので留守はないはずだ。

 昨日長崎について、1日だが旅の汚れを落とし、正装して訪問した。詰所は華美でもなく貧相でもなく、いたって普通の日本家屋だ。

「おかしいな。留守のはずはないんだが……」

「御免候! 御免候!」

 ……。

「大変申し訳ありません!」

 やっと下男とおぼしき男が慌てて出てきたが、どうやら本当に留守らしい。つきあいのある者に不幸があり、高島秋帆をはじめ、上の人間は葬儀にでているとの事。

「次郎、留守なら仕方がない。不幸事ならどうにもできぬ。もう一晩泊まって、明日出直すとしよう」

 信之介の言葉に俺はうなずき、昨日一泊した旅籠に戻ろうとした。一之進もお里も、従者3人と藩士も残念な顔つきだ。

(な、信之介。長崎と言えば遊郭やろ? ちょっと覗いてみん?)

(馬鹿な。お主。お役目で来ておるのだぞ)

(わかっとるさ! 堅いこと言うなよ。なあ、一之進、お前はいいやろ? どう思う?)

(俺はどっちでもいい。でも、お里はどうするんだ? 女は連れていけんだろう?)

(そこはなんとでもなるだろう? メシ食ってちょっと酒飲んで、寝たふりして3人で出かければいい。暮れ九つ(2341)頃に帰れば問題ない。寝てるよ)

((うーん))

「3人とも何話してるの?」

「「「! !」」」

「な、なんでもない。なんでもないよ」

「ふーん。まあいいけど……」

 あぶねえあぶねえ! なんで女ってこんなに鋭いんだ?

 

 どんっ。

「あ痛ぁ!」

 宿へ向かう路地の角を曲がった瞬間に、女の子にぶつかった。うわー、ベタだな。

「あ! お侍さま! ごめんなさい!」

 10歳くらいの女の子が泣きながら謝ってきた。いや、そりゃ無条件でこっちがゴメンってなるよ。

「あ、俺は大丈夫大丈夫、君こそ大丈夫?」

 どうやら泣いているのは、俺がぶつかったせいではないようだ。よく考えたら、ぶつかった直後に痛さで泣くのは赤ちゃんか幼児くらいだ。

「ごめんなさい、大丈夫です。ありがとうございます」

 何かつらいことがあったんだろうか。何歳でも女性の涙には男性は弱い。見ると草履の鼻緒が切れている。

「鼻緒が切れているじゃないか。お里、予備の持ってる?」

「うん、あるよ」

 俺はお里に言って予備の草履をその子に履かせた。

「何かの縁だから、うちまで送るよ。どこなの? あ、そういえば名前聞いてなかったね。それがしは大村藩士、太田和次郎左衛門と申す」

「……け、慶です。油屋町の油問屋の娘、大浦慶と申します」

「そうか、お慶ちゃんね。よし、俺たちが送るよ」

 そういって満場一致でお慶ちゃんを家まで送る事になった。

 ん? お慶? 大浦お慶! あああああ! 坂本龍馬の! 長崎の三大女傑でお茶の貿易商人だ! 

 そのお慶ちゃんが泣いていたんだ!

 かなりのインパクトに驚きつつも、あえて表に出さないようにした。

 聞くところによるとお慶ちゃんは、2ヶ月前に婿養子の旦那さんをなくしていたのだ。

 そりゃ泣きたくもなるよな。男手がなくなった事で、たった2ヶ月の間に取引を遠慮するところもあったらしい。

 途方にくれて泣いていたのだ。後世に女傑と呼ばれる大浦お慶も、まだ9歳の子供、男なら元服前の年齢だ。

 

 油屋町の自宅に着くと、お慶ちゃんが家族に紹介してくれた。

 家族は藩士の俺たちが焼香をしたいと言った時に少し驚いたようだが、娘を助けてくれた恩義を感じていたのもあり、なおさら丁寧に接してくれたのだ。

「じゃあお慶ちゃん、俺たちは帰るけど、あまり気を落とさずに、悪い事ばかりじゃないからさ。ね。何かあったら力になるから」

 大浦お慶とビジネスでの、という考えは起きなかった。

 本当だよ。自然にその言葉が出たんだ。将来的に付き合いは発生するかもしれないけど、今はまだその時期じゃない。

 泣き顔を腫らしていた彼女だったが、その頃には持ち直し、笑顔で見送ってくれた。

 

 ■翌日 長崎会所詰所

「昨日はご足労いただいたのにも関わらず、二度手間となってしまい、誠に申し訳ない」

 39歳で二回りも年齢の違う俺たちに対しても、腰が低い。よけいに恐縮してしまった。

 目がくっきりした顔立ちの、イケオジ(死語? 生きてる?)のような風貌の秋帆は、丁寧に挨拶をしてきたのだ。 

「とんでもありません。それがし大村藩士、二百九十石取りの太田和次郎左衛門と申します。このたびはお忙しいところお目通り叶い、誠にありがたく存じます」

「ははははは、とんでもない。それがしは堅苦しいのが苦手にござってな。次郎殿、でよろしいか? それがしの事も秋帆殿でかまいませぬ」
 
 ニコニコしている。

「はい、次郎で構いませぬ。然れど秋帆殿とお呼びするのは恐れ多い事にございます。これより我が藩の藩士を門人として迎え入れていただき、学ばせていただきます。その上秘蔵の書をお貸し願えるのです。ぜひ先生と呼ばせてください」

 秋帆先生はまんざらでもないようだ。

「世辞がうまいのう。次郎殿は。ふふふ、それで本だが、貸すのはよいが、オランダ語で書かれていているのだぞ。オランダ語がわかる通詞が大村藩にはいるのだろうか?」

「ご心配には及びませぬ。蘭学を学んだものがおりますゆえ、すぐにでも翻訳作業にかからせていただきます。先生も日々のお役目にお忙しいでしょうから、われらが少しでもお役にたてればと存じます。ひいてはこの日ノ本の役にも立ちましょう」

 秋帆先生は少し考えていた。何を?

「あいわかった。……実は貸すとは言ったものの、いかがいたそうか迷っていたのだ。それがしにとっても大事な書物ゆえ、生半可なものには任せられぬ。藩士を門弟に、との求めは過去に佐賀藩の鍋島様がおられたが、翻訳を申し出てくるものはおらなんだ」

「ありがとうございます」

「然れど、それがしの教えは厳しゅうござるぞ。藩士の方にもよくよく伝えてくだされ」

「はい」

 秋帆先生はそう言って木の箱に入った本を渡してくれた。

 

 次回 第16話 『モリソン号事件を警告しよう』

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