天保十年五月二日(1839/06/12) 肥前 太田和村
約四ヶ月の江戸滞在期間中は、渡辺崋山や高野長英にも面会をして、江川英龍と同じような話をした。
しかし時既に遅しで、高野長英はすでに幕政を批判した『|戊戌《ぼじゅつ》夢物語』を出版していたのだ。
一方で渡辺崋山は一月に執筆する予定の『慎機論』を出版していない。
しかしこれは史実と同じである。
そもそも華山自身が出版を取りやめていたものだ。その後の蛮社の獄における自宅捜索の過程で草稿が見つかったため、逮捕されている。
結局のところ次郎の奔走は、今のところ2人の逮捕を防ぐ事ができていない。今月から蛮社の獄が始まるのだ。
<次郎左衛門>
「さて、石けんの売れ行きは順調のようだな」
そう、売れ行きは順調なのだ。
順調なんだが、限界がある。
前に試算した時は、全国に販売できて年間5万両の利益だった。これは30石取り以上の武士を概算で考えての見積もりだ。
まあ自分の懐に入るか藩の蔵に入るかは、好きな事ができれば別にどっちでもいい。銃火器の製造や鉄の鋳造、蒸気機関と蒸気船をつくろうと思ったら、いくらあっても足りない。
今は多利薄売なので、利益を@250文に設定している。
じゃあこれをもっと安くして、薄利多売にしたらトータルの利益はどのくらいになるのか? それを考えていた。月に1個使うと仮定しよう。
人口が何人だ? 全人口じゃない。
農村の領民を除いた都市部の商人・町人、いわゆる庶民だ。農民は豪農を除いたら、びっくりするほど貧乏なんだから、金がかかる事は基本的にしない。
全国人口を3,000万人として、公家・神官・僧侶・武士・町民を約13%とする。
そうすると390万人だ。高級石けんの販売人数は6万人程度だから考慮しない。
そば一杯16文……いやいや原価割れ。
そうだな、100文で……買うか? うーん、買わん事はないだろうけど、そば約6杯分に塩が約3升、豆腐2丁半。
いや、利益@20文とかで考えよう。それで、月に11,555文。年に約14万両。高級石けんの利益とあわせて約20万両。それでもあと15万両は足らないな。
しかもこれはタラレバだ。
実際の販路開拓はまた変わってくる。大名家や馬廻り以上の武家に販売するんじゃなくて、町人向けだ。扱う店も変わってくるだろう。
一度お慶ちゃんに相談してみるか。でも、明らかに差別化しないと高級石けんが売れなくなるな……。
はあ……石けんはもういいや。販売数の上限があるから、これ以上の利益はでないだろう。
「ロウソクも作れるぞ」
「なんて?」
信之介は真顔で言う。
「たくさん売ろうにも、販売量に上限があるなら、別の物にして売ればいいんじゃねえかって思ったんだよ」
「そんなことができるのか?」
「うん」
信之介はそう言って、地面にその辺にあった枝で化学式を書く。
「石けんは脂肪酸に化合物が加わって固まったものだから、酢酸……お酢ね。石けん水にしてお酢を混ぜると、その脂肪酸が分離して、水に溶けない脂肪酸が浮かんでくるのさ。あとはこうやって……」
布でこして水気を取るジェスチャーをする。
「ちょっと待て、そこに酢が入るんだな?」
「うん。でもメチャクチャ高くはないだろう? お酢だよ? 太田和屋さんで聞いてみたら?」
「これはこれは。お久しぶりにございます、次郎左衛門様。こたびは何用で?」
相変わらず愛想がいい。
「店主さん。いま、酢はいくら?」
「酢……にございますか? そうですな。酒粕なら、四十貫目で銀五十匁くらいでしょうか」
「わかった! ありがとう!」
「おーい! 40貫目で銀50文らしい。銀1匁が111文だから、40貫で4,440文。ええと……酒粕1貫で111文。1貫は3,750gだ」
うむうむ、と信之介がうなずいている。
「いや、うなずく前に、石けん1個でだいたい何グラムだ?」
「えーっとな……約90gだ」
「それでロウソクは何グラムできる?」
「うーん、同量ではないだろうから、まあ半分と見積もってたらいいんじゃない?」
「なんだよ。いい加減だな。まあいいや。で、その酒粕はどんくらいいるんだ?」
「そうだなー……500mlくらい?」
「お、おう。じゃあ石けん2個と酒粕1ℓくらいで100gのロウソク?」
間違えちゃいけないから、俺は何度も計算をやり直す。
「そんじゃあ600gのロウソク作るのに、石けん12個と6ℓの酒粕がいるってわけね」
「そういうこと」
うーん。ちょっと待て。
1個の原価が、まあ菜種を使ったとして40文としよう。12個なら480文だ。それに酒粕が……ああもう面倒くさい。1ℓ=1kgと考えよう。
そうなると3.75ℓで111文。6ℓなら約178文だ。
ざっくり原価は……658、まあ700文としよう。
今のロウソクの販売価格が160目1斤(1本160匁のロウソクが1斤=600g)で銀5.02匁。銀1匁が111文だから557文。
ぎゃああああ! 赤字やんけ! イワシ油で考えても240文に足して418文……微妙……。
うん、止めておこう。
■|玖島《くしま》城
「江頭官太夫、そのほう知行百三十石を加増の上家老兼脇備士大将とし、加えて海防方とする」
「はは、ありがたき幸せにて、粉骨砕身努めまする」
「次に……」
ん? どうして?
「太田和次郎左衛門、そのほうを家老とし、殖産方に命じる」
「は、はは……あ、ありがたき幸せにございます」
なんだ? なんでこうなった?
次回 第33回 『藩政改革と新たな商品開発。精錬方も』
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