天保十年八月十九日(1839/09/26) 波佐見
奥村|嘉十《かじゅう》は近隣の炭焼き職人の中でも、良質の炭をつくるという職人を集めて話をしていた。
「今日集まってもらったのは、御家老様からの命により、木炭に代わる石炭の純なるものを造るためです」
集まった職人はざわついた。
「嘉十さん、いや、棟梁と呼ばせて貰うが、木炭を石炭に代えるとは本当なのかい?」
「いやいや、代える事ではありません。木炭はそのまま作ってもらいます。使い道が違いますので。木炭でも良いのですが、尋常ならざる量を要するゆえに、代替の品をつくるのです」
史実では大島の石炭は、大々的に採掘され始めるのは明治に入ってからだが、大島町の平島では小規模ながら、文化四年(1807年)より明治の初めまで採掘されていた。
今世の大村藩では次郎右衛門が命じた調査で大島の炭鉱が発見されていたのだ。
「それで、わしらは何をすればいいんじゃろうか」
「なに、この図面のような形で大きな釜を作ってほしいのです。できあがって首尾良く作れれば、いくつも作って貰う事になります」
そういって嘉十は、次郎から渡された信之介が書いたであろう図面を見せた。
「炭を作るには燃え始めてから頃合いをみて風穴を閉じるでしょう? あれと同じようにして、石の炭を作ってほしいのです」
「何のために作るんですじゃ? わしらも炭焼きの仕事休んでまでやったら銭にならんでの」
「何のためかは藩のため、皆の為としか今はいえないのです。されどお役目ゆえ、その分の給金ははずむそうですよ。かくいう私も給金は貰えますし、出来高で増えもします」
全員がしばらくざわざわと話していたが、やがて一人が発言した。
「わしはやる。炭を売ったってそんなに銭にはならんのじゃ。それに量もたかが知れとる。炭焼きを辞めるわけでもなし。こっちの方が銭になって自分の分の炭が買えりゃあそれでいい」
ざわついていたが、一人、また一人と賛成者が増えていく。やがて最後の一人も手をあげて、全員が賛成してコークス製造に携わることとなった。
「では、一つだけみなさんにお願いがあります。これは藩の事業にて、身内に他言無用に願います。もし漏らした場合には罪に問われますので、お忘れなく」
■またある日
「さて、耐火レンガなるものだが、陶磁器をつくるよりも熱い温度なるものに耐えうる物のようだ」
嘉十は考えていた。一度作ったものを壊し、それを使って新しい物を作るというのだ。
まず陶磁器用(製鉄用でも可)の窯を複数つくり、そこで耐火粘土を焼く。そうしてできあがった粘土を砕いて、窯の一つの内壁を砕いて混ぜる。
要するに高温に耐えうる素材を砕いて粘土に混ぜ、生成してさらに高温に耐えるレンガを作るのだ。
言うは易し行うは難し。
最初の窯を作る時点で時間がかかるであろうし、試行錯誤になるだろうことは目に見えていた。
■佐賀城
「殿、唐津の件いかがいたしますか?」
「それよの。まこと、頭の痛い限りじゃ」
唐津藩は現代の佐賀県唐津市を領する藩で、佐賀藩とは隣同士であった。しかし、島原の乱で寺沢家が改易となって以降、大久保・松平・土居・水野と藩主となる家が替わっていた。
この時期の唐津藩は、藩主となった水野忠邦が幕閣になるという野心で、禄高の低い浜松藩への移封を工作して実現している。
その際に家老の二本松義廉が諫死しているのだ。
その後一時期幕府領となったが、幕府の年貢が重く、藩の支配下となってからも、領民のうらみ辛みは長年続いていた。
さらに一昨年(天保八年・1837年)の飢饉に加えて、昨年の巡見使における臨時徴税で領民の不満は爆発寸前となった。
そのため、唐津藩内十数カ村の領民が退去して佐賀藩との国境に集結し、佐賀藩の領民にならせてくれと町番所へ嘆願してきたのだ。
「は、ただ今は容易ならざる事態にて、二千名の領民が多久の国境の要害に陣取っては杭を打って柵となし、|陥穽《かんせい》(落とし穴)を設けては砦となしておりまする。石を集めて得物(武器)といたし、一戦も辞さぬ覚悟かと」
「なるほど。民が怒れる唐津藩の内情はいくぶんか存じておるが、さりとて他藩の事、我らがその領民に与するわけにはいくまいよ」
佐賀藩の若き藩主も頭を悩ませている。
「いかがなさいますか?」
「そうだな。与するわけにはいかぬし、我が藩に簡単に入れるわけにもいかぬ。唐津藩は|如何《いかが》しておるのだ?」
直正は家老であり、実兄の鍋島茂真に聞いた。
「は、まずは話を聞き、条件を出して説いた後、徒党を解かせる様子にございます」
「うまくいくだろうか?」
「それはわかりませぬ。さりながら、唐津藩の領民の怒りは今に始まった事ではないと存じます。藩主が説いたとて、そう易々と畑に戻るとは思えませぬ。すでに領民の信を失っておるのです」
「ふむ」
直正にとっても人ごとではない。
藩内においても飢饉が起き、巡見使の費用負担も重なった。
佐賀藩の借財は十万両を超え、直正自身が先頭にたって倹約を実施し、奨励したところでなくなる物ではなかったのだ。
「唐津藩主の話を領民が聞けば良し。聞かねば唐津藩は兵をもって鎮めに動くであろう。勝ち負けは火を見るよりも明らかである。されば多数の流民となり我が藩に入るのは必定。我が藩も守りを固めねばならぬ。心苦しいが、支度をしておくのだ」
「はは」
■次郎邸
「次郎、佐賀藩佐賀藩と言っているが、いま佐賀藩はいかなる状況なのだ?」
「今? うーん、現状の大村藩より石けんを除いては進んでいると思うけど、近代産業はまだまだだね。まだ追いつける。それに今は一揆騒動で大変な時期じゃない?」
「一揆?」
「うん。隣の唐津藩で起きて、領民が佐賀藩になだれ込もうとしてる」
次回 第36話 『唐津一揆の結末と捕鯨。深澤家鯨組の復活』(1839/11/03)
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