天正七年六月一日(1578/7/5) サン・ペドロ要塞
「なんだ、これは。これがあのサン・ペドロ要塞なのか……」
城壁は全周囲で崩れ落ち、かろうじて陥落していないが、すでに風前の灯火であるのは誰の目にも明らかであった。艦砲射撃で無力化された砲台は明後日の方角を向き、兵士の死骸や瓦礫、木片がいたるところに散らばっている。
フアンもゴイチも言葉にならない。
陣地の構築が終わった小佐々陸軍は間断なく要塞を攻め、総攻撃を待つばかりとなっていた。
「さて、俺は無駄な戦はしたくない。今回の海戦で百人以上の捕虜ができたが、あのサン・ペドロ要塞もマクタンの要塞から逃げた連中がこもっている。兵糧はともかく、弾薬は残り少ないのではないか? もっとも反撃をする前に海軍の艦砲で木っ端微塵にしているがな」
純正は自慢するつもりではない。ただ当たり前の感情が、当たり前のように湧き出ただけである。
「さて、今日はお主らに会わせたい者がおる」
従者に指示を送って営倉から一人の男を連れてくる。
「面識は、あるか?」
「ああ! パブロ中佐!」
「パブロ……(中佐)!」
「……」
投降したフアンとゴイチの前に連れてこられたのは、スペイン軍総司令官であるオニャーテの副官、パブロ中佐であった。
「中佐、本隊は閣下とともに降伏したと聞いたぞ。閣下はどこだ?」
二人はオニャーテの消息を尋ねるが、パブロは口を閉ざしている。純正は時間が惜しいのか間に入って、事実(?)を告げた。
「あやつは自決したようだ。もう一人の先任士官、だが名前は……忘れた。まあそんな事はどうでもいい。三人にやってもらいたい事がある。自らの上官が無念の死を遂げた事には同情するが、ならば攻めてこなければいい。あの要塞を降伏させよ」
純正は三人を見回し、にこやかに笑う。
「なにもせずとも命の保障はいたすし、士官待遇の扱いをする。されどお主らも同朋が死んでいくのを見たくはあるまい? よいか? 我らは容赦はせぬぞ。次の総攻めで一万二千の兵が要塞になだれ込み、根切りにするであろう」
通訳が『根切り』をどう訳したかわからないが、三人の顔から血の気が引いた。
「わかりました」
三人の中では一番若いが、役職が上のフアンが他の二人に目で合図を送って返事をする。
「よし。話が早い。三人で行ってもらって構わない。その方があいつらも信じやすいだろうからな」
こうして三人はサン・ペドロ要塞のフィリピン総督ピコンの元へ、降伏勧告の使者として向かうのであった。
■サン・ペドロ要塞
「なに? フアン提督が来ていると? おおお、さすがだ。敵を蹴散らしてくれたのか!」
やつれて伏せっていたピコンは、この報告を聞いて飛び上がって喜んだ。
「閣下、それが……どうも違うようです。詳しくはお会いになってからお話しください」
やがてピコンの前に三人がやってきた。
「おお! フアン提督にゴイチ提督! それに久しいな、パブロではないか。オニャーテ殿はどうした?」
「ピコン閣下、オニャーテ閣下は自決されました」
フアンはさらりと言った。
オニャーテと一番付き合いがないのがフアンである。年齢的にも5年程度であるし、頻繁に顔を合わせていた訳でもない。ゴイチはレガスピの片腕であったから、20年近く前から知っている。
副官であったパブロは言わずもがなだ。
「は? 何を、あの、あのオニャーテ殿が自決など……する訳がない。何かの間違いであろう?」
ピコンは狼狽し、柱にもたれ掛かったと思ったら、よろめきながら椅子に座る。
オニャーテとは特に仲が良かった訳ではないが、お互いに軽口を叩きながら、フィリピンを含めたヌエバ・エスパーニャ領内での出世レースを戦ってきたのだ。
いるとウザいがいなくなると寂しい、あれと同じである。
「間違いではありません、ピコン閣下。われらイスパニア艦隊45隻は小佐々海軍に完膚なきまでに叩きのめされ、降伏したのでございます」
ゴイチがその野太い声で真面目に話す。
「馬鹿な。イスパニアの新鋭艦隊が、このような地で、しかも醜い黄色い猿などに負けるなど、あり得ぬではないか! !」
抜け殻のようだ。
まさにそれが言い得て妙であるかのような状態にピコンはなった。
体が震え目が泳いでいるその様は、三ヶ月前に景轍玄蘇と会談し、純正の狙いを看破して、本国に応援要請を行って防衛網を敷いた者と同じとは思えない。
「そうだ! この戦いの大義はどこにある? 我らはやつらの使者と会談し、過去の争いがあったかどうかを調べるかわりに、その間、十ヶ月間は戦闘行為を行わないと条約を結んだのだぞ」
ピコンは有能な為政者であり外交官でもあったが、この期に及んでは的外れな発言である。
「過去の争い……6年前の事ですか? 戦いの有無など、我らが先制し、敗れたではありませんか? 今さら何を言っているのですか? それに彼らが約束を破ったとして、一体誰がそれを裁くのですか?」
……。
……。
……。
まさにその通りである。スペイン側としても時間かせぎの為の条約であり、負けるとは思っていなかったのだ。誰が裁く? そう、裁ける者などいない。
いるとすればそれは勝者だけなのだ。
「閣下。KOZASA殿は降伏すれば攻撃はしないと仰っています。将兵の命も助かりますし、われら士官はそれなりの待遇をしてくれるそうです」
フアンは静かに、淡々と語りかける。
「そうか……全員、皆、降伏したか……。やむをえまい、降伏する」
「感謝いたします。これで無駄死にはなくなります」
パブロが最後に語りかけ、三人はスペイン軍司令部を後にした。即日、小佐々陸軍が進駐し、武装解除を行い、サン・ペドロ要塞は陥落した。スペインのフィリピン統治の歴史が幕を閉じたのである。
■織田艦隊 旗艦艦上
「殿、勝ちましたな」
「うむ」
九鬼嘉隆の問いかけに信長は短く答える。信長は何か考えているようだ。
「それで、いかがいたすのですか?」
「何がだ?」
「何がとは、恩賞にございます。我らとて遊んでいた訳ではありませぬ。少なからず失も出てございます」
嘉隆は現在を含め、今後日本国内で領土を増やす事ができない事を言っているのだ。家臣に褒賞を与えようにも土地がない。それに金で応えようにも小佐々との経済摩擦がある。
それならば新天地に新たな交易の利を求めるしかないのではないか、というのである。
「その儀は前もって、五年の間小佐々との商いを優遇させるとなっておったではないか」
「それでは、先細りではございませぬか? 新しき地を、この異国の地に求めてもよいのではありませぬか?」
信長は考える。果たして、例えばセブ島を領土として得たとしよう。いかにして統治するのだ? 言葉も通じぬ原住民をいかにして従わせるのだ?
富春やアユタヤ、バンテン王国や遠くムスリムの商人、ポルトガルとも交易ができるだろう。ミンダナオ島のマギンダナオ王国やスラウェシ島のゴワ王国も有望だ。
しかし、すでに各所に小佐々が入植し、大使館や領事館のようなものを置いている。交易にしても、一体何を買い、何を売るのだ? どう考えても小佐々の二番煎じではないか。
それに、まるでコバン鮫のようだ。おこぼれをもらって生きているようではないか。
「その儀は考える。内府殿にも聞かねばならぬしな」
次回 第656話 (仮)『対スペイン戦の反省と軍事改革と再編成』
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