第7話 『邪馬壱国の都、方保田東原の宮処』(AD255/7/5⇔2024/6/10/13:00) 

 正元二年六月五日(AD255/7/5⇔2024/6/10/13:00) 邪馬壱国 宮田むら

 修一は別にある粗末な建物に寝かされ、翌朝起きた時には既に日も昇っており、壱与達は何やら出かける準備で大忙しであった。修一が起きると、目の前の生口(奴隷)が食事の用意をしている。

「ありがとう」

 修一はそう言って食事を見るが、昨日とはうって変わって質素な物である。正直、うまそうには見えない。

 ……やはり、まずかった。

 食えない訳ではない。食には頓着がない修一であったが、それでも味気ないものは味気ない。そして、相変わらず箸はない。しかし、これ以外に食べるものはないのだ。修一は目を閉じて、無理やり喉に流し込んだ。

 ああ、味噌汁飲みたい、ラーメン食べたい、コーヒー飲みたい、お茶飲みたい……。

 やはり昨日は特別で、普段はこういう質素な食事なのだろうか。

 修一の叶えられることのない欲望は、つきない。

 昨日わかった事だが、どうやらここは、邪馬壱国を形成する国家群の一つで、大村市を中心とした已百支国いはきこくが治めている地域のようだ。富の原宮処みやこが中心地となる。

 その已百支国いはきこくの西の外れの宮田むらという事だ。修一は眠い目をこすりながら食事を済ませ、外に出る。明るい。人がせわしなく動いている。

 粗末な家々、裸足で歩く人々、異臭漂う空気。そして、どこからともなく聞こえてくる、聞き慣れない言葉の会話。どうやら壱与以外の言葉は、相当に注意しないと聞き取れないようだ。

 「ここで生きていけるのか……」
 
 我に返った修一の心に、絶望感が押し寄せる。
 
 現代の知識は役に立たず、言葉も通じない(完璧ではない)。病気になったらどうする? 怪我をしたら? 食べ物や水でお腹を壊したら?
 
 そんな中、唯一の救いは壱与の存在だった。しかし、それも両刃の剣だ。壱与の庇護ひごがなければ、修一はこの世界でまともに生きていけない。そして、壱与の気まぐれ一つで、その庇護は簡単に失われるかもしれない。




 壱与がいた屋敷に向かうと衛兵に止められるが、壱与がすぐに中に入れてくれた。伊弉久いさくは、まだいた。相変わらず仏頂面だ。

「壱与、何しているの? みんな忙しそうに動いているけど」

「宮処に、戻る」

「都?」

 壱与はニコニコしながら修一に話しかける。現代に飛ばされた壱与であったが、いるべき場所に戻って、やはり活き活きしているようだ。当然である。

「一月も宮処を空けていた故な。本当ならとっくに帰って女王としての仕事をせねばならなかったのだ」

「あ……うん。で、俺はどうなるのかな」

と一緒に来るが良い。は吾の命の恩人じゃ。それに汝と居ると楽しいでな。何と言うか、心が安まる」

「そ、そう?」

 なんとも言えない不思議な気持ちの(二十歳の)修一である。壱与の笑顔に少し安堵しつつも、心の奥底では不安が渦巻いていた。




 昼過ぎに出発した一行であったが、海沿いを南下して入江の邑を目印に東へ向かう。

 夏の日差しが降り注ぐ中、修一は見慣れない景色に驚嘆していた。緑豊かな草原が広がり、遠くには青い海が輝いている。時折見かけた村人は、壱与の輿こしをみてありがたや、ありがたやと拝んでは平伏している。

「壱与、この辺りの人たちはみんな友好的だね」

「この辺りは吾が治める地だからな。民たちは日の巫女である吾を慕っておる」

 壱与の統治が平和で安定している証拠だ。輿に乗りながら微笑んで答える壱与の隣に、特別に陣取って一緒に歩いている修一だが、伊弉久いさくは最後まで反対した。

「得体の知れない男に食事をさせた挙げ句、宿を用意し、あまつさえ邪馬壱国の宮処まで連れていくなどあり得ない」というのがその理由である。

 しかし伊弉久のその意見に、壱与は反対し、強引に特別待遇を許したのだ。

 一行は進む。

 道中、いくつかの小さな邑を通り過ぎたが、どの邑でも人々が壱与に敬意を示し、平伏している。日没前に山を越え、日没時には十喜津邑ときつむら(時津)に到着して宿泊した。

 翌朝からさらに東へ進み、伊佐早邑(諫早市)へ到着して二泊目である。壱与が言うには、邪馬壱国は現在の熊本県にあるようだ。ここは已百支国いはきこくで、伊邪国いやこく(諫早市~島原半島)を経由して有明海を渡っていくという。

 邪馬壱(台)国熊本説だ!……残念ながら修一の持論ではない。

 本来ならばそのまま東進して伊邪国へ向かいたいところだが、壱与の女王としての役目なのだろう。已百支国国主いはきこくくにぬしに挨拶するために北上して富の原の都へ向かい、一泊。

 四日目に出発し、再び伊佐早邑を抜け、二日かけて伊邪国の都、中野邑(島原市城内)へ到着した。

 ここで一泊して六日目に有明乃海(有明海)を渡る事になるが、現代なら約2時間の距離である。修一は未だに信じられない。しかし、見聞きするもの全てが、彼が255年の古代にいることを示しているのだ。

 六日目の朝、一行は伊邪国の都、中野邑を出発し、有明乃海(有明海)を渡るための準備を整えた。場所は海沿いに来た道を戻り、多比良の浜より船に乗って対岸にある都支国ときこく(熊本県玉名市)の長洲ながすの湊へ向かう。

「壱与、船はどれくらいの大きさなの?」

「吾が用意した船じゃ。中土なかつち(中国大陸)にも渡れる船を、民たちが心を込めて造った。全長は四丈一尺(約10メートル)はあるから、汝も安心して乗れる」

 ※1丈=10尺、1尺=10寸、1寸=10分……1尺=24.2cm(古代中国三国時代・西晋)

 丸木舟の船首と船尾、舷側に堅板に貫を加えたハイブリッド船? ……修一には不安しかない。帆すらないのだ。

「すごいね。こんな大きな舟で渡るんだ」

 と、言ってみる。

「そうじゃ。吾らの民の技は信ずるに足る。安心してくれ」

 船はゆっくりと港を離れ、波に揺られながら進んでいく。
 
 天気は快晴で、陽の光がさんさんと降り注いでいる。海難の恐れはない。しばらく進むと修一は最初の不安も忘れ、海の美しさに目を奪われていた。

 有明海。

 こんなに綺麗だったのか、と驚きながらも壱与と共に海風を感じていた。壱与は微笑みながら、修一に話しかける。

「吾の国には美しい景色がたくさんある。汝がそれを楽しんでくれれば嬉しい」

「本当に素晴らしいよ。こんな景色、現代では見られない」

 海を渡る旅は順調に進み、昼過ぎには対岸の都支国ときこくに到着した。ここからは再び陸路を進むことになる。壱与の説明によれば、ここから宮処まではもう少しの道のりだという。

 この時代のもう少し、というのが現代のどれくらいに該当するのか? 修一は不安に思いながら、またも都支国の都である塚原邑にて一泊することになる。

 宿に入ると、修一は長旅の疲れを感じながらも、これまでの旅路を思い返していた。壱与の隣で過ごす時間は特別であり、彼女との絆が深まっていることを実感できる。

 しかし、同時に不安がなくなるはずもない。ここは修一が探し求めていた世界だが、住みたい訳ではない。現代とは何もかも違う異世界の古代日本なのだ。

 伊弉久などは壱与のためなら平気で俺を殺すだろう。

 修一にとって、壱与の存在=自分の命なのだ。
 
 修一は現代にいた時の、壱与の心細さが痛いほどわかる。なにせ今の自分と同じなのだから。生きているのではなく、壱与に生かされているといっても過言じゃないだろう。

「明日は早朝に出発しよう。吾の国の中(中心)、宮処に着くのが待ち遠しい」

「うん、楽しみにしているよ」

 翌朝、壱与一行は早朝に出発し、宮処へと向かう最後の道のりを進んだ。

 途中、広大な田園風景が広がり、美しい自然が彼らを迎えてくれた。修一は壱与と共に歩きながら、この旅が彼にとってどれほど特別なものかを再認識する。

 日が高く昇る頃、一行はついに方保田東原かとうだひがしばる宮処みやこに到着した。立派な建物や整然とした街並みが広がり、修一はその壮大さに圧倒された。




「なんだここは……吉野ヶ里の比じゃないぞ」

 修一はその広大さと活気に圧倒される。都は高い防御壁と巨大な木製の門で囲まれ、大通りの両脇には露店が立ち並び、色とりどりの商品が所狭しと並べられている。
 
 市場は多くの人々で賑わい、農産物や手工芸品、貴重な交易品が売られていた。
 
 壱与の王宮は巨大な高床式建築で、神殿には祭壇が設けられ、儀式が行えるようになっている。修一はその壮大な規模と繁栄に驚かされたのだ。

 正元二年六月十二日(AD255/7/12⇔2024/6/10/20:00)




 次回 第8話 (仮)『邪馬壱国のイツヒメ(伊都姫)とミユマ(彌勇馬)』

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