第178話 『下田追加条約とクルティウスとライケン。長崎海軍伝習所について』

 嘉永七年五月二十三日(1854年6月18日)

 和親条約締結後の五月に、その細則として下田追加条約が締結された。次郎はこれにも同席したが、特に日本側に不利になるような重大な事項はなかった。

 ざっくり書くと次の通り。

 第一条
 下田鎮台支配所(奉行所)の境界線策定のために関所を設けるが、アメリカ人は規定により七里(約28km)範囲の出入りは自由。しかし違法行為があれば拘束されて船へ送還される。

 第二条
 商船や捕鯨船のために三カ所の上陸地点を定める。一つは下田、一つは柿崎、一つは港内中央の小島の東南にあたる沢辺。アメリカ人は必ず日本の官吏に対して礼を尽くすこと。

 第三条
 アメリカ人は許可なく武家や民家に入ってはならない。ただし寺院や市場の見学は自由である。

 第四条
 その際の休憩所として下田の了仙寺と柿崎の玉泉寺を定める。旅館設置まではこの寺院を利用すること。

 第五条
 玉泉寺境内にアメリカ人の埋葬所を設けるが、粗略に扱わないこと。

 第六条
 神奈川で結んだ条約で、箱館で石炭を得られるとあるが、現地補給が難しいのでペリー提督はこれを了承し、箱館での供給はなしと政府に通達する事。(箱館での石炭補給はなし)

 第七条
 今後両政府で公示を示す場合、オランダ語の通訳がいない場合は、漢文の訳書は用いない。

 第八条
 港取締役一人、港内案内者三人を定めること。

 第九条
 商店にて品を選ぶ際、買い手の名前と商品の価格を記し、御用所に送る。その価格は御用所で日本の官吏が精査し、品物は官吏から渡すこと。

 第十条
 鳥獣の狩猟は禁止されているため、アメリカ人もこの制度に従うこと。

 第十一条
 今回函館の境界を日本の里程で五里と定め、その地の作法はこの条約の第一条に記載されている規則に倣うこと。

 第十二条
 神奈川での条約に基づく書簡を受け取り、これに答えるのは、日本の君主が誰に任せるかは自由である。

 第十三条
 ここで取り決める規定は、どんなことがあっても神奈川の条約に反することがあっても、これを変更することはない。

 以上の条約附録は、英語と日本語で認めて署名し、オランダ語に翻訳して合衆国と日本の全権双方が取り替えるものである。

「ふう。やっと終わった。……いや、まだロシアが来るのか。面倒くせえなあ……」

 熱しやすく冷めやすいのは次郎の性格であるが、今は国難の時期である。そうも言っていられない。ただ、基本的にアメリカという前例があるので、それをたたき台にすればいい。

 それでもロシアとの関係は、領土問題が絡んでいるから面倒である。領土はそこに国があり、人がいれば発生する問題であり、どちらか一方の論理がまかり通る訳ではない。

 ロシアは樺太も択捉も千島列島も全部ロシア領だと言うだろう。

 幕閣はそれにどう対応するのだろうか? 長崎で待たされて、次郎のアドバイスで浦賀に向かったプチャーチンは、今度は直に浦賀に向かうだろう。




 ■オランダ商館

「うかない顔をしておりますな、商館長」

 机に座って頭を抱え、考え事をしているオランダ商館長、ヤン・ドンケル・クルティウスに対して声をかけたのは、大村藩川棚海軍伝習所(海軍兵学校)の校長であるヘルハルト・ペルス・ライケンだ。

「やあライケン殿、どうしたのですか? そうか、今日は……日曜日ですか」

 海軍の教練に忙しいライケンがそこにいたので、確認したのだ。今日は日曜日で教練は休みである。スパルタライケンもそこはきっちり生徒に休みを取らせていた。

 お盆の夏期休暇や年末年始の冬期休暇はもちろんである。

「休日とはいっても、娯楽もないですしね。この出島と変わらない、それ以上の待遇で環境を整えてくださってはいますが、やはりどこかに出かけると言えば、ここなのですよ」

 次郎の進言もあって、大村領内ではオランダ人技師や教官に対して、なるべく不自由のないように住まいや生活の手配をしていた。食事や日用品の手配も、全てにおいてである。

 おそらく日本で一番外国人に偏見がないのが大村藩の領民であろう。

「ははは。なるほどな。母国は遠いからな。さすがに二週間の休暇では帰れまい?」

 ははははは、そうですね、とライケンも笑う。

「それで、何を考えていたのですか?」

「うむ、実は、これからの日本政府に対してどう働きかけるかを考えていたのだ」

 クルティウスは幕府に対して、ペリー来航前に別段風説書でそれを知らせ、アメリカと条約を結ぶ前にオランダと結ぶように交渉を行ったのだが、不発に終わっていたのだ。

「……それは、一つしかないのではありませんか」

「というと?」

 ライケンの言葉に、クルティウスは確認するかのように聞いた。

「海軍でしょう」

 クルティウスは椅子に深く腰掛け、ライケンの言葉を反芻はんすうする。海軍。そうだ、日本の海軍力強化こそが、オランダの存在価値を高める鍵になるかもしれない。

「確かに」

 クルティウスは言う。

「日本の海防は脆弱だ。彼らは外国船の接近に恐れおののいている」

 ライケンはクルティウスの机の正面に立ち、姿勢を崩さずに続ける。

 クルティウスは商館長であり外交官であるから、ライケンの直接の上官ではない。それでも立場的にはライケンは教官であり、クルティウスはオランダの顔なのだ。

 直立不動ではないが、かしこまった格好をしている。

「大村領での我々の活動は、すでに日本の海軍力向上に貢献しています。これを全国規模に拡大できれば……」

「そうだな。幕府に対して、海軍強化の重要性を説く。そして、我々オランダこそがその最適な協力者であると。ああ、ライケン殿、楽にしたまえ」

 クルティウスは事務机の前にあるテーブルの脇に手をかざし、座るように促す。自身も椅子に座り、ライケンはクルティウスが座るのを確認して座った。

「まさにその通りです。すでに昨年、幕府から軍艦の発注があったでしょう?」

 咸臨丸と朝陽丸だ。
 
「ああ、そうだった」

 クルティウスは椅子に座って使用人に紅茶の用意をさせ、ライケンの言葉に耳を傾ける。

 確かに、幕府からの軍艦発注は大きな前進だった。しかし、それだけでは不十分だ。オランダの影響力を維持し、拡大するためには、さらなる戦略が必要だった。

「ヤパン号とエド号だ。しかし、それだけでは不十分だ」

「そうですね。軍艦だけでなく、運用技術も必要です。そこで我々の出番があるのではないでしょうか」

 クルティウスは腕を組み、出島の窓の外を眺めながら考えを巡らせる。

 日本の海軍力強化。それは単なる軍艦の供給だけではない。技術、教育、そして戦略。全てを包括的に提供できるのは、今のところオランダだけだ。

「ライケン殿、それが最適解であろうな」

 クルティウスはニヤリと笑って言った。

「我々は単なる軍艦の売り手ではない。日本の海軍を一から築き上げる、それこそが我々の役割だ」

「その通りです。大村領での経験を活かし、幕府直轄の海軍学校を設立する。そこで我々が直接指導にあたれば……」

「よし、早速幕府への提案書を作成しよう。海軍学校の設立、教官の派遣、そして継続的な技術支援。これらを具体的に提示する」

 クルティウスは机に戻り、ペンを手に取った。




「時にライケン殿。大村侯の腹心である次郎左衛門殿とは、どういう人物だ? 以前一度会ったことはあるが、それ以降は商人が窓口で、噂程度にしか知らないのだ」

 思い出したかのようにクルティウスがライケンに尋ねた。

「そうですな……生粋の軍人というよりも、どこか抜けたところはありますが、有能な政治家でありネゴシエーターであり、商人であり、海軍軍人である、というところでしょうか。不思議と海軍の事に関しては小官よりも詳しかったりするのです。優秀で人なつこい感じなのですが、つかみ所がないというのも事実です」

「それは、なんとも……確かにつかみ所がない」

 ははははは……と二人は笑った。

 オランダはこの後、日本の海軍力強化へ向けてさらに強力なサポートをしていくのである。




 次回 第179話 (仮)『吉田東洋解任と幕府・各藩情勢』

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