第182話 『四賢侯、山内容堂と島津斉彬』

 嘉永七年八月二十日(1854/10/11)  京都

「いやほんま、次郎さんの神通力には目を見張るものがありましゃるの。雲龍水に消火器、前もって備えておったからこそ、これだけの災いで済んだのであろうの」

 京都の大村藩邸からは一之進肝入りの医師団と、次郎から派遣された連絡員が岩倉邸や鷹司邸を行き来していた。

 安政の大地震と言えば江戸が有名だが、数年にわたって起こっている。
 
 今回は安政伊賀地震と呼ばれるもので、三重県伊賀市で発生した地震だ。もちろん、京都以外の伊賀周辺に設置を呼びかけてはいたが、絶対数が足りなかった。

 しかし、これは今後起きるであろう(起きる)東海地震や南海地震、江戸地震を経て飛越地震に至るまでの序章に過ぎない。




 ■江戸 土佐藩邸

「さて、我が家中は如何いかがいたすべきか」

 山内容堂の腹心と言えば吉田東洋であるが、ここにはいない。不敬の罪ありとして参政を罷免されていたのだ。

「然れば、わが家中は藩祖様の頃より御公儀の恩厚く、の行く道が我が家中の道と存じます。然れども国を開くか否かと問われれば、現を見ますに、開国もやむなしかと存じます」

「ほう? 攘夷じょういは能わぬか」

「……能わぬ、事はないかと存じますが、こちらの失も大きく、難多き事ゆえ、成しがたきかと存じます」

公儀こうぎは国を開くであろうか」

「いずれは、と考えます。然れどの間の条約については、あくまで港は開くが交易はせぬと聞き及んでおります。開くにしても時をかけねば、いらぬ騒動を起こす事になりかねませぬ」

 ゆくゆくは開国もやむなしだが、いきなり開国をしては国内に混乱をもたらす、という事だろう。

 大村藩はオランダ人の行動制限を緩和し、領内で比較的自由に活動させてきた。もちろん日本人とのトラブルを未然に防ぐために、両者に十分の告知を行って段階的に緩和していったのだ。

 次郎達転生人の役割が大きい。

「うむ。国内は如何じゃ?」

「土佐はあくまで佐幕にござる。皆で助け合い、御政道を行うのは良き事にございますが、勤王や尊王などは、いたずらに世を惑わしかねませぬ。御公儀の政が二百年の泰平をもたらしてきたのでございます。いま朝廷へ政の権を移す道理はありませぬ」

 ※勤王……天皇のために尽力することと、天皇のために反対者や裏切り者を排除すること。

 ※尊王……天皇と朝廷を敬い、その政治的権力を回復しようとする考え方。

「うべなるかな(なるほど)。佐幕にて公儀を支えながら、朝廷も尊ぶと。して、つぶさには如何いかにする」

 対外的には徐々に開国(幕府に従い)、国内的には佐幕+ちょっと尊王(実権は渡さず)の思想であろう。

「然れば、まずは人材の登用と、軍制の改革、これまで通りの殖産興業にございましょう。西洋式の軍隊をつくるには、まずは長崎、いや、万次郎がいたという大村に藩士を遣り、学ばせることが肝要かと存じます」

 家老の言葉に容堂はうんうんとうなずきながら尋ねる。

「然れど大村なら、万次郎が来てすぐに人をやって学ばせておるではないか」

「足りませぬ。数人ではまったく足りませぬ。藩費がかさんでも、数十人の藩士を学ばせねば間に合いませぬ」

「ふむ、然様か……では人選は任せるゆえ然るべき人数を大村へるのだ」

「はは」

 件の家老が言っている事は、罷免ひめん前に吉田東洋が言っていた事である。




 九州諸藩と長州に遅れまいと、土佐も動き出した。




 ■江戸 薩摩藩邸

「殿、日の丸、とでも申しましょうか。御公儀の評判も良いようで」

「うむ。今はまだ通商は行っておらぬが、ゆくゆくは開国して異国の文物を取り入れるようになるであろう。そうなった時に国の旗がなくては話にならぬでな」

 薩摩藩主の島津斉彬は、腹心であり側近の市来四郎と話をしている。四郎は青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学を修めたところを島津斉彬に認められ、側近となっていた。

 その後は製薬掛を経て砲術方掛となり、集成館事業に携わるなどの要職を務めている。

「仰せの通りにございます」

 昨年、大船建造の禁が解かれた際、薩摩藩は幕府に対して大船建造の申請を行って許可が下りていたのだ。その際の旗印として日の丸を用い、幕府に対しても日本国籍の船の旗とするよう進言していたのである。

 その建造の第一隻目が帆船『昇平丸』だ。

「その後、昇平丸は如何だ?」

「は、万事つつがなく進んでおります。年内には完成するかと存じます」

 昇平丸は昨年の嘉永六年六月(1853年7月)に起工し、今年の四月(5月)に進水していた。

「ふむ、大村の船より大きいが蒸気船ではない故な。一刻も早く蒸気缶が完成してほしいものだ。して集成館は如何じゃ?」

 斉彬は藩主就任以来、製鉄・造船・紡績に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開していた。

 このあたりは次郎の大村工業地帯と似ているものがあるが、規模と技術力には雲泥の差があったのだ。

「はい、鋳鉄砲に関しましてはさほど障りなく進んでおります。然りながら大村藩との差異がございますれば、これは留学生の戻りを待つほかございません」

 斉彬は反射炉(銑鉄を再溶解)・熔鉱炉(銑鉄を製造)・さん開台をセットで製造していたが、残念ながら死んだ後に集成館事業は縮小されてしまう。

 しかし今世では、大村で学んだ学生が、大いに薩摩の発展を助ける事になるだろう。

「ガラスの製造もおおむね順調ではございますが、大量に作るとなると質の良し悪しがでてまいります」

「うむ。然れど失敗を繰り返しつつも良くなっているのであろう? ならば良し。それを糧としてより良いものができれば良いのだ」

「はは」

 これだけ見ると、佐賀藩よりも進んでいるかのように思える。しかし史実はどうあれ、佐賀と薩摩は大村藩の次の二番手争いで、熾烈しれつなデッドヒートを繰り広げる事になるのだ。




 もちろん、幕府や各藩が進めば、同じかそれ以上、大村藩は進むのである。




 次回 第183話 (仮)『ヘルハルドゥス・ファビウスとSoembing号、そして長崎海軍伝習(所)』

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