嘉永七年八月二十日(1854/10/11) 長崎
「なんと、これほど日本人の技量が育っているとは……これでは小官が教える事などほとんど無いではありませんか」
幕府はオランダからの働きかけもあり、海軍創設へと動き出した訳であるが、その第一歩がオランダが仕掛けたSoembing号(以降スンビン号と記載)の長崎寄港と、日本人への操艦技術の伝習である。
もともとスンビン号の寄港は、日米和親条約の締結前に、アメリカの目的などの情報を詳細に集めるためだった。しかし、寄港前に和親条約は結ばれてしまった。
そこでオランダはスンビン号の寄贈を決断する。
商館長のクルティウスの提案もあったが、大村での伝習の実績もあり、発注した軍艦が届くまでの間、スンビン号を練習艦として使える様にして、幕府に恩を売っておこうとしたのだ。
長年の貿易相手というアドバンテージがあったにも拘わらず、和親条約でアメリカの後塵を拝したオランダであったが、続いて蘭和和親条約を結び、次の通商条約は最初に締結して諸外国より優位に立とうという野心があった。
史実ではスンビン号はこの後いったん長崎を離れ、来年に再来航して幕府への寄贈となるのだが、一年前倒しでの寄贈である。そのため伴走艦であるフェデー号も長崎港にあった。
「おい、聞いたか?」
「なんが?(何が?)」
非番で休暇を共にしているのは海防掛総奉行、江頭官太夫の長男の隼人助と二男の新右衛門である。
「新しく来た和蘭の軍艦、スンビン号あるだろ? 公儀に寄贈されて公儀海軍の船になるらしい」
大村海軍川棚社交クラブのラウンジで昼食をとりながら、隼人助は弟に言った。
新右衛門はスプーンを動かしながら、兄の方を向く。
「へえ、そうなのか。公儀の船になるってことは、俺たちも乗れるってことか?」
「いや、どうやら違うらしい。スンビン号には旗本や御家人しか乗せないようだ。それから、長崎に新しく公儀の海軍伝習所ができるらしい。そこも同じく、公儀専用だ」
隼人助は少し顔をゆがめながら、多少腹立たしい思いもあったのだろうか。これまで藩が違い、幕臣と外様の藩士の違いはあっても、同じ釜の飯を食った仲間であった。
ここで、幕臣に限る、というしばりをつけてくる幕府のやり方に疑問を持ったのかもしれない。
新右衛門はカレーを食べ終えてスプーンを置き、グラスを口にやって一気に飲み干し、水のおかわりを頼む。一息ついて兄の言葉を咀嚼するが、すぐに『はぁぁぁ……』と溜め息をつく。
「そうか……旗本御家人だけか。それじゃあ、俺たちには関係ないってことだな」
隼人助はワイングラスを手に取り、ゆっくりと香りながら飲む。
普段ならリラックスできる一時なのだが、そのワインもなんだか場違いに感じられた。隼人助の仕草には、複雑な思いが見て取れる。
「ああ、そういうことになる。……なんであろうな。それに伝習所の件もある」
「伝習所?」
新右衛門は聞き返した。
「新しく長崎にできる伝習所も旗本だけのようだ。御家老様は川棚に大村の海軍と伝習所を設けられたが、他の家中からの入学を拒まなかった。我が家中の秘が他に漏れるやもしれぬのに、だ。これは伝習所に限った事ではない。まあ、秘中の秘までは明かしてはいないのだろうが、それにしても公儀のやり方は、公儀の事しか考えておらぬような気がするのよ」
隼人助はそういってワインを飲み干し、おかわりをオーダーした。
「兄上、飲み過ぎではありませぬか?」
「構うものか、今日は非番なのだ。それに新右衛門、お前がいるではないか」
そう言ってわはははは、と笑う。酩酊しているわけではない。少し気分が良くなっているだけだ。
「軍艦も人も伝習所も、何もかも銭がかかる。公儀は莫大な銭を使って海軍をつくろうとしている。つまりはその強大な軍事力で、異国は無論の事、わが家中も含めた他の家中を、とくに外様だな。力で抑えようとしておるのではないか? メリケンに港を開いたという事で、公儀の事を弱腰だと言っておる者も多いと聞く。公儀に対して不満をもつ輩を、武を以て抑えつける為だ」
隼人助の考えは決して突飛ではない。
現に昨年のペリー来航以来、諸大名を始め市井の意見を広く聞いたことで、幕府の威信は落ちたのだ。さらに今回の条約締結で、緊急時のためだけと言っても、港を開いた事になる。
弱腰だ攘夷だと騒ぐ勢力が増しているのは確かであった。急先鋒は水戸藩であるが、斉昭の思惑とは別に、一人歩きする水戸の攘夷勢力が増してきていたのである。
「そんな……それじゃあ、まさか……まさか公儀と戦にはなりませんよね?」
「ははは! それこそ突飛だろう? まあ我ら軍人は命に従うだけゆえ、あまり政の事に口を出すべきではないが、事が事ゆえな。御家老様に直に聞ければいいが、そうもいかぬでな」
「然うですね」
「おおう! お疲れ! なんだ? 今日は非番か?」
「「ご、御家老さま! ?」」
二人は驚いて立ち上がり敬礼をするが、次郎はさっと敬礼してニコニコ笑いながらテーブルに近づく。荷物は護衛の助三郎と角兵衛に預けている。
「いいよ固くならずに楽にして。それに市井の人もいるんだからさ」
この洋風ラウンジは少し高台にあって工業地帯が見渡せる。大村海軍専用という訳でもなく、一般にも開放しているのだ。隼人助と新右衛門は緊張を解き、席に座り直した。
次郎が二人の向かいに腰を下ろすとウェイターが駆け寄り、注文を聞く。
「コーヒーを一杯」
次郎はそう言って、ウェイターが去ると二人に向き直る。
「さて、如何なる話をしていたのかな?」
次郎は立場上、他藩の重役や自分より年上の者と関わる事が多い。そのせいか年下の二人の会話には興味があったのだ。隼人助は少し躊躇するが、決意を固めて口を開く。
「実は、スンビン号と新しい伝習所の話をしておりました」
「そうか。如何に思う?」
「設けるのが公儀にございますから、致し方ないと言えばそうなるのですが、この川棚の伝習所と同じく、旗本や御家人だけではなく、我らのような外様の家中の者にも門戸を広げるべきではないでしょうか」
次郎は二人の顔を交互に見る。
「うべな(なるほど)。確かにその通りだ。実は俺も同じことを考えていてね」
新右衛門は驚いて声を上げる。
「御家老様もでございますか?」
「……ただ、そうは思うが、それはそれで仕方が無いと思うてもいる」
次郎はコーヒーが運ばれてくるのを待ち、一口すすってから話し始めた。
「考えても見よ。大砲の鋳造しかり、洋式船しかり。しかして蒸気船じゃ。すべて我が家中に先に行かれておるであろう。御公儀としてはここで何とか追いついて、公儀の威光を取り戻し、在りし日の姿に戻そうと考えているのやもしれぬ」
大船建造の禁の中、洋式船の建造に始まり操船を習熟し、オランダから教官・技師を呼んでは近代化を推し進めてきた大村藩である。海軍にしても、十年以上の歴史があるのだ。
「公儀は公儀、我らには一日の長があるのだ。おいそれと覆りはせぬ。スクリュー推進の至善丸は竣工し、二年後には八百トンの国産スクリュー船ができあがる。輸入すれば早かろうが、修繕するには造船所も要るし技師も要る。金だけでは成り立たぬさ」
「うべなるかな。目から鱗にございます」
「我らは我らの道を行く。承知しました」
隼人助が言うと新右衛門が続いた。
次郎は二人とのやり取りの中で、考えていた。
「来年の九月には参号ドックができあがる。そうなれば次は千五百トンクラスの船だ……」
技術的な問題はまだ解決はできていない。
最悪、開国後に最初の蒸気缶と同じように輸入をして、まねて造ろうかとも考えていたのだ。
次回 第184話 (仮)『大村藩か、幕府か。オランダか、米英仏か』
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