安政三年九月十五日(1856/10/13)
紆余曲折を経て、次郎の軽快なジャパニーズブラックジョークから始まった日本の対4か国協議は、関係国が5か国で参加したという事もあり、序盤から難航を極めた。
■日本側参加メンバー
全権 下田奉行 井上信濃守清直
中村出羽守時万
通訳 ジョン万次郎
見聞役 大村丹後守純顕
大村利純
家老 太田和次郎左衛門
オランダ語通訳・フランス語通訳
■アメリカ……タウンゼント・ハリス
■イギリス……ジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵・第12代キンカーディン伯爵 )
■フランス……ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵
■オランダ……ヤン・ドンケル・クルティウス(商館長)
懇親とまでは到底いかなかった次郎のお茶作戦であったが、クルティウスだけがニコニコと緑茶を飲んでいる。
「クルティウス殿、それは?」
「Il s’agit de thé vert.(これは緑茶です)。郷に入れば郷に従え……ですよ」
席次3番目のフランス全権であるグロから質問を受けたクルティウスはサラッと流す。
オランダとしては、他の3国とは違い、全くあせる必要はなかったのだ。キリスト教の布教という面を除いては、ほぼ満足のいく条件で、すでに日本とは通商条約を結んでいた。
日蘭通商条約(弘化三年・1846年)
前文
日本国公儀と和蘭国は、両国間の友好関係を深め、限定的な自由貿易を実現し、さらに現存の出島を拡張することで貿易の発展を図るために、以下の条約を締結する。
第一条 自由貿易の許可
本条約により、以下の三家中に和蘭国との自由貿易を許可する。
黒田美濃守家中
鍋島肥前守家中
大村丹後守家中
上記の三家中は、長崎出島において和蘭商人との直接取引が許可される。
第二条 出島の拡張
三家中(黒田美濃守家中、鍋島肥前守家中、大村丹後守家中)は協力して現在の出島を拡張する事。拡張後の出島の総面積は、現在の3倍を上限とするが、拡張工事は本条約締結後三年以内に完了させるものとする。
必要があれば、公儀と三家中の協議の上、出島の規模をさらに拡張できるものとする。
第三条 和蘭人の行動範囲拡大
第一項 条約締結後一年は拡張された地域での自由な行動を許可するものとし、二年後には出島から半里(約2km)四方の移動を許す事。三年後以降は長崎市中全域での行動を許可するが、不用意な領民との接触は避けること。
以下にその条件を記す。
長崎奉行所の監督の下、安全性と秩序維持の評価を行い、認められた場合にのみ許可する。問題が生じた際は公儀の判断により拡大を一時停止または縮小できる。
居住地以外で問題が発生した場合は日本の法によって裁かれるが、日蘭双方の法に開きがあるため、逐次法のすりあわせを行い、それについては公表をすること。
外出の際は必ず通詞を同伴させるものとし、意思の疎通が原因で問題が起きることのないようにすること。
第二項 技師・教官の各家中領内においての居住
和蘭国から招聘した技師や教官の、各家中の領内居住を許可する。各家中は招聘者の居住を許可するが、出島と同様の管理された居住区を設ける事。
第三項 技師・教官の行動規制
基本的に長崎の出島におけるものに準拠するが、各家中の裁量に任せる事。しかし問題が発生したならば、長崎奉行所において対処するものとする。場合によっては家中の貿易免状を廃すものとする。
第四条 貿易の形態
拡張された出島内でのみ直接取引を行うものとし、取引量は自由であるが、関税についてはその対象品および率を、公儀と三家中で決定したものを、さらに和蘭国との協議によって決めるものとする。
~後略~
総じてオランダにとっては現状、まったく問題はないのである。
大村藩との貿易により、従来の幕府との交易によって生じていた貿易赤字が解消され、日本が大得意様というより大村藩が大得意様となっていた。
それぞれの自己紹介が終わったのだが、全権である清直は本題に入ろうとはしない。
「さて、困りましたな。英吉利に亜墨利加、仏蘭西に和蘭にございますか。いったい誰に、どの言葉で話せばよいのか……」
「然様でございますな。見ますに……一番上座に座っている亜墨利加、つまり英語で良いのではないでしょうか」
井上信濃守清直が、中村出羽守時万に確認している。
最初からこうであるから、先行きは不安だ。前回の和親条約締結時に次郎が訂正した条文のように、もし何らかの条約を結ぶとしても、国によって齟齬が発生する可能性があるのだ。
「そのまま、質問なさいますか?」
後ろで控えめに立っていた通訳の万次郎が、清直に聞いた。
「そう、であるな。では……『皆さんの代表はどの国で、何語で話せばよいのか』と聞いてくれ。……いや待て。何も言うな。言う必要はない」
清直は万次郎に伝えてもらおうとしたが、すんでのところで止めた。すぐに時万の方を向いて言う。
「別にわざわざ我らの方から話を進めなくてもよいのだ。彼の者等は招かれざる客である。ならば相手の言い分を聞いて如何にするかを決めるだけでよい」
「仰せの通りにございますな。こちらから話す要はありますまい。横柄に構えるのはよろしくはありませぬが、ゆるりと構えておりましょう」
次郎は横で二人のやり取りを聞いていたが、最初に紅茶ジャパニーズジョークを発してからは、何も発言せずに黙って座っている。それよりも次郎が驚いたのは、自分の隣に座っている人物だ。
なんと次郎の横には……藩主の弟である大村修理利純がいた。
次郎は今、この場で知った。いるはずのない人物がここにいるのだ。
少なくともジョークの時はいなかった。入室して開口一番に挨拶代わりにジョークを発したのだが、その後着座しようと席次を確かめている時に、現われたのだ。
「如何した次郎よ。まるで幽霊でも見るような目をしているではないか」
全くの無表情で次郎を見る利純(純熈)に、少なからず動揺を隠せない次郎である。席次を確認する時に挨拶はしたものの、その後は何を話せば良いのかわからずに、そのままである。
条約がどうこう、相手国がどうこうという前に、隣の人物に驚いていたのだ。
「い、いえ然様な事は何も。ただ、なにぶん何も聞いていなかったものですから」
そう言って反対側に座っている藩主純顕を見ると、笑いをこらえるのに必死である。これではまるでイタズラ小僧ではないか。かっこよくジョークで決めた次郎が、挙動不審になっている姿を見て笑っている。
(まったくこのお方は……肝が太いというか、何と言うか)
次郎は内輪のこういう状況が直接交渉に影響はないと分かっているが、見せるのはあまりよろしくない。向こう側ではクルティウスがニコニコと笑っている。
他の3か国はそれどころではないようだ。
「さて、まず要求したいのは、長崎の開港である」
ハリスが口火を切った。
次回 第206話 (仮)『長崎の開港と居住権』
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