安政三年十二月七日(1857/1/2)~それまで
交渉は難航していた。
ハリスが言っている事も一理あるが、日本としては下田と箱館を開港して、各国の船に対しては便宜を図っている。食料や水、燃料などの必需品も迅速に補給できるように順次体制が整ってきていたのだ。
通商に関しては議題ではないが、議題であったとしてもオランダだけで事足りている。
「クルティウス殿、あなたは外交官として、オランダの国益を守る事が第一義だと仰った。間違いありませんな?」
「間違いありません」
ハリスの問いかけにクルティウスは即答した。
「では、我らも国益を第一義に考える。特に通商に関して言えば、我らが日本と通商を結ぶことによって、オランダの独占的な地位はなくなる。それはなるべく避けたいし、不可避だとしても、できるだけ先延ばしにしたいのは理解できます」
クルティウスはそれには答えずに黙って聞いているが、ハリスがどんな意図で言っているのかを考えている。
「その上で、我らが知っている事実を、日本側に伝えても問題ありませんな?」
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味です」
■安政三年十二月七日(1857/1/2)
同じ議題で同じやり取りを繰り返しているマンネリの中で、ハリスが口を開いた。
「いま、下田と箱館に関して言えば、アメリカ・イギリス・ロシア・オランダは同じ条件で日本側と条約を結んでいます。しかし長崎に関しては、通商は別としてオランダのみに門戸が開かれています。これはなぜですか?」
ハリスの鋭い指摘に場の空気が一瞬凍りついたが、清直と|時万《ときつむ》が顔を見合わせながら思案している。クルティウスは表情を変えず、黙って聞いているだけだ。
「オランダとは長年の友好関係があり、信頼を築いてきました。他国とは異なる扱いをしているのは事実です」
清直は咳払いをし、慎重に言葉を選びながら答えた。
「なるほど。では信じるに足る外国はオランダのみである、と?」
「そうは言ってはいません。二百年以上の通商の歴史があり、我が国の法やならわしなどにも通じ、信ずるに値する間柄だと考えているという事です」
ハリスは清直の発言を最後まで聞き、もうないと確認した上で言う。
「ではオランダの行いが全て正しいと? 今ここにいるオランダを悪く言うつもりはありませんが、日本が外国船の打払い令を薪水の給与令に変えた事を、我が国は1852年にはじめて知ったのですよ。今から5年前です」
清直と時万はハリスの言葉を真剣に聞いている。
「しかし、実は12年前に既に変更されていたというではありませんか。しかもオランダの商館を通じて諸外国に通知するように依頼をされている。7年間もオランダがこれを黙っていたのは、どういう事ですか? 国益を守るためとは言え、日本国の意向を無視して我々に黙っていたのですよ」
「何が仰りたいのですか?」
時万が口を開いた。
「言葉の通りです。オランダが悪いという事ではありません。ただ、海外の(特定の国の)情報を集めるのに、1国だけではどうしても情報の偏りがでてきます。複数の国と非公式でも情報のやり取りが出来れば、その情報を取捨選択して日本の国益につなげることができるのではありませんか?」
オランダが風説書として東アジア・東南アジア、そして列強の国情を報告しているのと同様に、自分達も情報を提供するから、その代わり開港してくれ、というのだろう。
クルティウスは黙って聞いている。そしてこれは事実であり、そうしたのは本国の意思であるからだ。ただしクルティウスの商館長就任前の出来事である。
実際のところ、幕府もオランダの情報を100%信用している訳ではなかった。
ペリー来航の前年にあたる1852年に送られた、オランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の親書ではこう書かれてあったのだ。
『オランダの推奨案として長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎の5か所の商人に限る』と。
次郎はこの一連の流れを知ってはいたが、基本的には開国派なので、別段影響がないとして放置していた。この親書は幕府に送られたが、その際に長崎奉行は『オランダ人は信用できない』と述べている。
以前のオランダ風説書で、イギリスの香港総督ジョン・バウリングの渡航が予告されると記載されていたが、渡航はなかった。つまり、100%正しい情報ではなかったという事だ。
「信濃守様(清直)、御公儀はこの事様にて(状況で)、如何
にお考えなのでしょうか?」
次郎の目的は内乱を起こさずに開国し、諸外国とも平等に国交を結んで近代化することである。それがなされるなら、チャッチャと開港しても全く問題ないのだ。
問題は国内事情である。
「公儀としては、これ以上の港を開港したくはない。然れど、やむなしとなれば、なるべく時をかけ開港となすべし、である」
「うべなるかな(なるほど)。然らば居住権については如何にお考えなのでしょうか?」
「それも同様じゃ。長崎や大村の領内では問題なくオランダ人が出入りしておるが、それは日本をよく知ったオランダ人であるからに他ならない。しかも日本語のわかる通詞をつけておるのだ。居住権などは認めたくはない。然れど、それも、先の長崎開港と同じで、止むなしならば、なるべく時をかけよ、と仰せであった」
次郎は長崎を開港したとしても、下田と箱館では必要な物が得られないとして居住権を求めてくるのであれば、長崎の開港を1年後とするように提案した。
また、補給物資が迅速に補給できれば居住権もいらないだろうから、まずはそれを解決してはどうか、とも提案したのだ。
「あい分かった。ではその線で進めるよう、御老中さまにお知らせいたそう」
「ハリス殿、要望は長崎の開港と、下田と箱館にアメリカ人の居住を許可するように、との事でよろしいか?」
「はい、その通りです」
「居住を求める理由が、アメリカ人が求めるものが供給されづらいから、とあるが、食料と水・薪やその他の物資が迅速に補給されるのであれば、居住の必要はないのではありませんか?」
ハリスは言葉を探すように視線を下に落としたが、すぐに顔を上げ、冷静な声で答えた。
「おっしゃる通りです。必要な物資が迅速に補給されるのであれば、居住の必要はなくなるでしょう。しかし、それが十分に行われるかどうかが重要なのです。これまでの経験から言えば、補給が滞る場合もあり、その際には居住権が不可欠となります」
「うべな(なるほど)。ではお伺いしたい。何を如何ほど、如何ほどの期間で補給できれば|子細《しさい》ない(問題ない)のでござろうか?」
予想通りの答えに、清直はよどみなく質問で返した。
ハリスは清直の質問に対し、しばらく思案する様子を見せる。部屋の空気が張り詰める中、彼は机の上に置かれた書類に目を走らせ、何かを確認するようだ。
しかし、もし迅速に補給できる体制が整ったなら、居住の必要性の大義名分がなくなるのだ。
「具体的な数量と期間ですか……」
「そうです。こちらも目安がわからなければ用意のしようがありません」
ハリスは言葉を選びながら口を開いた。
「それは船の大きさや乗組員の数によっても異なりますが」
彼は一呼吸置き、周囲の反応を窺うように視線を巡らせた。クルティウスは無表情を保っているが、ブルースとグロは興味深そうに耳を傾けている。
「例えば、中型船であれば、1か月分の食料と水、そして2週間分の燃料が3日以内に補給できれば十分でしょう。もちろん、これは最低限の要求です。より迅速な対応があれば、それに越したことはありません」
ハリスは慎重に言葉を紡いだ。
仕方がない。具体的な数字を言わなければ話に信憑性がでない。こちらはその頻度と量を増やして、3日以上かかるという既成事実をつくっていくしかない。
……あの下田の追加条約での修正がなければ、こんなにも苦労はしなかっただろう。少なくとも領事館の設置はスムーズにいったはずだ。既成事実をつくり、そして通商が必要となれば、いずれ他の港も開港となる。
しかし、現状は厳しい。
「わかりました。では長崎の件はこちらで協議にかけますので、下田と箱館の件はいましばらくお待ちください」
清直は一度江戸に行って協議すると言い、交渉は一旦中断となった。
次回 第209話 (仮)『落とし所と水戸の徳川斉昭』
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