第207話 『武力衝突! ?』

 安政三年十一月十日(1856/12/7) ~それまで

「あいや待たれよ! 信濃守殿(井上清直)、どうか御静まり下さいませ! Dear Brooke, let’s remain calm. Let’s take a short break.(ブルーク殿、ここは冷静に。いったん小休憩といたしましょう)」

 前回の交渉の際に一触即発の危機を回避したのは、次郎のこの一言であった。

 純顕に目配せして了解をえた次郎は、日本側上座に座っている井上信濃守清直のそばにいって言う。




「信濃守様、お気をお静めくださいませ。相手の挑発にのってはなりませぬ。戦を始める口実にならずとも、戦っても勝てませぬぞ!」

 次郎は冷静に清直を諭すように伝えたのだが、清直は少し高ぶっているようだ。

「然様な事はわかっております。高ぶってなどおりませぬ。然りとてあの者の言いよう、無礼千万ではないか」

「それが奴らの狙いなのです、相手に先に攻撃をさせ、被害者の体で戦を引き起こすのです。例えそれが間違っていたとしても、大義名分を与えてはなりませぬ」

「次郎殿」

 今度は隣に居た中村出羽守時万ときつむが次郎に尋ねてきた。

「勝てませぬか?」
「勝てませぬ」

 勝てませぬか? (貴殿等の力をもってしても)という意味だが、食い気味に次郎は即答した。

「少なくとも今は、海戦において圧倒的に火力が足りませぬ。仮に一矢報いる事ができたとて、最後には負けましょう。海戦では」

「海戦、では?」

「然様、海戦で奴らが勝てたとしても、占領するには上陸してそこを足溜り(拠点)とせねば、意味がありませぬ。加えて守るならばわが方が有利にございますが、然りながら! 幾百、幾千の無辜むこの民の命を投げ出さねばなりませぬぞ」

 そんな事をすれば幕府の威信は地に落ち、暴動、内乱となって再び戦国の世に逆戻りである。

「然様な事は、誰も望んではおらぬでしょう?」

 清直も時万も、黙ってうなずくしかなかった。純あきと利純は、下座で黙って腕を組み、目をつむっている。




「ブルース殿、いったい何をお考えか? そんな事をして日本が動じるとでもお思いか?」

 ハリスは、イギリス全権のブルースに向けて問い詰めるように言葉を放つ。ブルースは一瞬目を伏せ、軽く肩をすくめたが、すぐに目線を戻して冷静な口調で答える。

「ハリス殿、私の意図は日本側に対し、我々の決意を示すことであり、威圧を目的としたものではありません。日本が自らの利益を理解し、共に歩む道を選ぶために、現実を直視してもらいたいのです」

 その言葉には、決して脅迫の意図はないと主張するかのような落ち着いた響きがあったが、ハリスは彼の言葉の裏にある思惑を感じ取り、微かに眉を寄せる。

「だが、ブルース殿。慎重であるべきです。この交渉は我々にとって極めて重要な局面であり、無用な圧力をかけることで得られるものは限られています。清国とは違うのですよ?」




 イギリスが中国とのアヘン戦争を起こした経緯は、貿易赤字を解消しようとしたからである。中国は自由貿易を禁じ、限られた商人にしか交易を認めなかった上、『朝貢』というスタンスであった。

 イギリスは茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していたが、時計や望遠鏡のような富裕層向けの輸出はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったために、大幅な輸入超過だったのだ。

 そのためアヘンを密輸して大量に販売し、利益を得ようとしたのだが、大量投棄事件と厳重な取り締まりによって武力衝突を引き起こした。




 ブルースはハリスのその言葉を受け流すように小さく頷き、視線を日本側に向け直す。清直と時万は次郎のいさめもあり、動じることなく冷静にその視線を受け止めている。

「ハリス殿、それは私も理解しております。だが、貴殿もご存知の通り、現状を打破するには、時に大胆な手段が必要なのです。どうやって日本に条件をのませるのですか?」

 ・長崎の開港
 ・下田と箱館に外国人の居留を許可(燃料・食料・水・その他必需品の迅速なる補給が困難なため)

 これが最初にアメリカ・イギリス・フランスの3か国(オランダは除く)が求めているものであり、認められなければ先には進めない。

「まずは……下田と箱館の居住権よりも先に、長崎の開港を認めてもらいましょう。オランダと我ら3か国の違いは何か? なぜ認めてはくれないのかを、詳細に聞き、それを一つずつ取り除いていくのです」

 ブルースはため息をついた。

「気の遠くなるような事ですね」

「それが、外交と言うものです」

 ブルースはもう一度ため息をつき、持ってこさせた紅茶のおかわりを飲む。
 
 傍らにいたフランス全権のグロ男爵は黙って二人のやり取りを聞いていたが、結果に納得したのか、最後まで口を挟むことはなかった。




 ■安政三年十一月十日(1856/12/7)

「では、長崎の開港についてお伺いしたい。現状、すでに下田と箱館は開港しているのですから、このうち1つをやめて長崎を、となっては意味がありません。我らとしては、自国の利益というよりも航海者の安全のために、1つでも多くの港を開港してほしいというのが本音です」

 ブルースに代わってハリスが、というより元に戻ってハリスが発言した。前回のお互いの爆弾発言の後、何度も協議を重ねてきた議題である。

 日本側全権の清直と時万ときつむは冷静さを保っていたが、内心では相手の意図を慎重に見極めようとしているのが感じられる。

 交易を行って日本に利益のあるものを得ようという交渉ではない。正直なところ、日本にメリットはないのだ。

「ではハリス殿、此度こたびもし、長崎をも開港するといたしましょう。正直なところ我が国には全く利のない話なのですが、そこは如何いかがお考えか? 無論、人命に関わる事ゆえ、難破船や遭難者の事はよきに計らいますが、貴国の商船が貴国の利のために捕鯨を行い、清国と行き来して交易を行うのを助けたとして、我が国の益は?」

 清直の痛烈な問いが、場の空気を一気に引き締めた。ハリスは軽くせき払いをし、言葉を選びながら慎重に答える。
 
「確かに、直接的な利益は見えづらいかもしれません。しかし……」
 
 ハリスは言葉を途切れさせ、机の上に広げられた地図に目を向ける。指で日本列島を指し示しながら、ゆっくりと話を続ける。
 
「世界は急速に縮小しています。貿易の流れは、いずれ日本にも押し寄せる。その時準備ができていれば、大きな機会となるでしょう」

 ……。

 少しの沈黙の後、清直が答えた。

「その流れは、貴国らが作為的に作っているものでしょう?」

 清直の鋭い指摘に、ハリスをはじめ西洋側の全権たちは互いに視線を交わす。クルティウスは静かに目を閉じ、深呼吸をする。ブルースが身を乗り出し、声を上げようとするが、ハリスが軽く手をあげて制した。

「清直殿、正直に腹をわって話せば、その答えは”YES”です。しかしそれは国益のためというより、人類はそうやって自らの生活を豊かにしてきたのではありませんか?」

 ハリスの発言に、清直と時万は顔を見合わせる。

 いったい何を言っているんだ? この男は。

「例えばこの下田沖に停泊している蒸気軍艦です。軍艦かどうかは別にして、この蒸気船を使って我らは、この遠く離れた本国より、18日でこの地へ移動できるのです」

 地図を指さして言う。さらにハリスは続けた。

「そのすごさ、便利さを思えばこそ、あのように多くの蒸気船を揃えたのではありませんか? 我が国ではランプが主体でありますが、より明るくより長持ちするように、貴国でもロウソクや灯明に改善をくわえてきたのではありませんか? その良い生活を求める事は、悪でしょうか?」

 しばらくの沈黙の後、ハリスは付け加えた。

「貴国では外国人は打ち払うべし、殺してしまえ、などと言うムーヴメントがあるようですが、なぜですか? なぜ我らが悪をもたらし、日本に害をもたらすとお考えになるのですか? 今回の要求は、開国をして通商を行えというものではありませんし、決して貴国に害となる事ではありません」




 ハリスはそもそも論を持ち出してきた。




 次回 第208話 (仮)『オランダと同じように』

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