第203話 『通商条約の前に和親条約の改正』

 安政三年八月十七日(1856/9/15)  

 イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4か国艦隊が、各国の領事予定者を乗せて下田に着いた頃、中国では太平天国の乱が継続中であった。

 イギリスは太平天国の首都(建都された南京・天京)を公使であるジョージ・ボナムが訪問した際に、北王韋昌輝および翼王石達開と会見しているが、イギリスは清朝・太平天国両方に中立であると告げている。

 そしてアロー戦争の発端となるアロー号事件が10月に発生するのだ。




 ■下田 了仙寺

「現在はこの『RYOUSENJI』が我らの宿舎のようですが、何かと不便ですね。いちいち靴を脱いで入らなければならないし、家のつくりが違い過ぎるので困惑しています。それから日本人は、我らを『IJIN』とまとめて呼んでいるようですが、国の違いをしっかりと認識してもらわなければなりません。そうでしょう、クルティウス大使」

 イギリスの全権であるジェイムズ・ブルース (第8代エルギン伯爵・第12代キンカーディン伯爵 )は、にこやかにオランダ商館長であるクルティウスに話しかけた。

「え、ええ……そうですねエルギン伯爵」

 各国の要請に抵抗できなかったのか?

 それとも便乗する方が得なのか?

 オランダ本国の判断は『国益を考え臨機応変に』である。そう指示を受けていたクルティウスは、各国には角が立たないように歩調を合わせ、それでいて自国の権益は守るという難題を帯びていた。

 各国の日本に対する通商の権利を認めれば、これまでの独占的な地位を失うのだ。しかし、現状維持は限界まで来ている。この上は最恵国待遇で日本側を納得させつつ、各国と同等に交易を行うしかないと考えていた。

「日本は清国とは違うようですが、我らとも違いますね。いずれにしても、我らの国益を満たすためには、まずは通商の条約よりも、この下田の追加条約を改正しなければなりませんね。みなさん、紅茶はいかがですか?」

 フランスの軍艦から給仕を連れてきたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵(以下グロ男爵)は、そう言って全員に目配せをする。

 随員にはギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール(初代駐日フランス公使)やシャルル・ド・モンブラン(後に在フランス日本総領事となる)がおり、通訳のメルメ・カション神父もいた。

「いただきましょう」

 そう言ってアメリカ全権大使のタウンゼント・ハリスは随員と一緒に紅茶を飲んだ。オランダはともかく、なぜ後発のイギリスやフランスがここで大きな顔をしているのだ?

 ハリスは別に彼等に含むところがあるわけではない。

 双務的最恵国条約に近い内容で批准しているのだ(無条件ではない。その都度日本側との交渉が必要)から、良い条件で日本が他国と結べば、それはすなわちアメリカとの締結となり国益になる。

 ただ、ここまでこぎ着けたのは我らアメリカ合衆国なのだぞ、という認識は変わらない。そう思ってなぜかリーダーを気取っているイギリスのブルースに対して、複雑な心境のハリスである。

「クルティウス大使、日本側は誰が交渉にくると思いますか? まあ、誰がきても同じだとは思いますが、参考までに」

 ブルースはグロに勧められた紅茶の香りを嗅ぎ、一口飲んで聞いた。

「そうですね……『HAYASHI』殿が初めてのアメリカとの交渉にあたりましたが、なにぶん高齢なので、おそらくは随員で参加した『岩瀬』殿や『永井』殿、『井上』殿や『村垣』殿、他には……」

「ああ、いやいやもう結構です。聞いた私が愚かでした。いや、クルティウス大使、気を悪くされないでください」 

 クルティウスを手で制して、ブルースは紅茶を飲み干して机に置いた。

「クルティウス大使、日本人とはどういう人種ですか? 長く日本にいる貴殿なら、よくご存じではありませんか。下手に出るつもりはありませんが、彼等の趣味趣向や考え方などを良く知っておいた方がいい。そういう意味で大使の同席は心強い」

 フォローになっているのかいないのか、よくわからない会話が発生したが、今度はグロが発言した。どこまでが本心で、どこからが建前なのかわからないが、クルティウスはグロの質問に率直に答える。

「そうですね。日本人は……勤勉で素直、そして礼節を重んじます。しかしそうは言っても、良い意味で色んな人がいますから、一概には言えません。中には我々の文化を知り、同じような考え方をする人もいます」

「「「!」」」

「……クルティウス大使、それはまさか、Mr.Mungの事でしょうか?」

 そう発言したのはハリスであったが、どうやらジョン万次郎の事を言っているのだろう。

「Mr.中浜は、確かにそうですが、彼のような経験をした日本人は希有ですし、それが私が言う日本人の性格の一つではありません」

「それでは一体……」

 ハリスとともにブルース(イギリス大使)やグロ(フランス大使)は、クルティウスの言葉に真剣に耳を傾けた。

「私は長崎にいますが、その地は幕府の直轄領です。しかし防衛は周辺の領主が行っており、その中で大村侯、サー・丹後守の配下で、私は個人的に懇意にしているのですが、Mr.太田和……ジロウザエモン・オオタワという人物がいます」

 サー・タンゴノカミ?

 ……聞いた事がある。

 日本政府の中枢にいるわけでもなく、西の辺境の小領主という事だが、諸侯と交誼こうぎを通じ、その発言力は幕府を動かすとも、動かさないとも……。

 そしてその懐刀であるフィクサー・ジロウはペリーを前に流暢りゅうちょうな英語を話し、条約を訂正させている。しかもロシアのプチャーチンを手玉にとっているというではないか。

 三人は各々想像を膨らませながら、クルティウスの続きを待つ。

「私は個人的に彼に好意を抱いていますし、日本との交易が自由化されたのも、彼の働きが大きかったと聞いています。頑迷な幕府の要人を説得したというのです」

 クルティウスは続ける。

「これまで我がオランダも通商とはいえ幕府の厳しい管理下にあり、……今さらですので言いますが、正直なところ赤字でした。それがMr.太田和が幕府を説得したおかげで、幕府と近隣の三領主だけではありますが、取引量の上限なく自由に貿易が可能となったのです。政治家としての手腕もさることながら、外交官・商人としての気質もそなえ、それでいて軍人のようでもあるのです」

 三人は顔を見合わせているが、やがてハリスが口を開いた。

「大使、その……Mr.オオタワとやらは、この交渉に同席しますか?」

 クルティウスは即答した。

「考えられます。しかし幕府は、彼に対してあまりいい印象は持っていません。幕府にも海防掛という部署があり、長崎には長崎奉行、下田や浦賀は兼任で奉行がいるはずです。まずは彼等が交渉にあたるでしょうが、日本に不利な内容だと、間違いなく正式な調印の前に介入してくるでしょう」




 フィクサー・ジロウとは、いったい何者か?




 ■数日前 江戸 築地湊

「遅い! まじで遅い! くそ遅い! どんだけ待たせんだよ、たかだか登城で!」

「御家老様、いや、立場的に太田和殿とお呼びしたほうがいいのか……急く気持ちは分かりますが、御公儀とてそう簡単に調印はしますまい。幸いまだ艦隊も到着しておりません。ここは心落ち着かせ、待つのも仕方ありませぬ。然れど意思決定に時間がかかりすぎるのは、考えものですね」

 4か国艦隊の来航を知った長崎奉行所は、停泊中であった観光丸にも報せを送っていた。

 大村海軍が江戸へ向かうと聞き、そこに幕府(海軍)がいなくては話にならぬと、長崎海軍伝習所の総監理(所長)となっていた永井尚志は判断したのだ。

 そこで観光丸が随行し、江戸の講武所が設けられた築地に入港した。

 艦隊は下田沖を航行するときに4か国の艦隊を発見は出来なかったが、それは予定よりも上海からの出港が遅れたためである。

「や! ここにいらっしゃいましたか御家老様……いや、太田和殿?」

 観光丸艦長の矢田堀鴻が次郎と副将の勝海舟を見つけて呼びかけた。海舟より鴻は年下だが、同時期に伝習所に入っており、航海術では抜群の成績を修めていたのだ。

「どっちでもいいよーもう。様でも殿でも」

 ~さんに慣れた次郎は無頓着だ。

 しかし二人とも大村では次郎に世話になり、頭が上がらない。それでも小普請とは言え旗本である。陪臣である次郎とは同格もしくは格上であった。




 次回 第204話 (仮)『下田追加条約改正? 通商条約?』

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