第243話 『条約破棄?』

 遡って安政六年八月三日(1859/8/30) 大村 産物方

「”Madam”……私は責任者との面談をお願いしたはずですが……」

「私が責任者です。本来なら家老である夫が責任者ですが、留守の際に全権を委任されているのは私です。ですから私に話していただいてけっこうです」

 ジョージ・モリソンは面食らっていた。目の前にいるのはお里である。

 幕府に武器弾薬、軍艦の独占輸入を暗に断られたオールコックが、次に目をつけたのが大村藩であった。

 日本には200以上の諸侯がいて、その頂点に立つのが大君である将軍だと思っていたのだが、西国にその大君に比肩する程の実力をもつサー丹後守がいるという。

 そしてその腹心であり、主君である丹後守を江戸の大君と比肩たらしめている人物が、フィクサー次郎であり、Mr.太田和なのだ。

 そこで長崎領事であったモリソンに命じて大村藩にコンタクトをとり、藩が主導している電信網の整備に参入して利益を上げようと考えたのだが、まさか女性が出てくるとは思わなかった。

「失礼ですが、Mrs.太田和でしょうか?」

「はい、その通りです。夫の次郎左衛門は現在、京都にて役目を果たしております。私が主人の代理として、すべての決定権を持っています」

 お里は微笑んで答えたが、オールコックは驚きを隠せない。日本の女性が、しかも大名の家臣の妻がこのような重要な地位にあるとは想像もしていなかったからだ。

 モリソンは驚きを隠しつつ、冷静さを取り戻そうと努めた。

「大変失礼いたしました。Mrs.太田和、お会いできて光栄です。日本の他の藩でもこのような……慣習があるのでしょうか?」

 お里は穏やかに首を振る。

「いいえ、わが家中は特別です。わが殿である丹後守様と夫の次郎左衛門の方針により、我々は能力本位で人材を登用しています。それが我が家中の強みです」

「なるほど、大変興味深い慣習ですね。さて、本題に入らせていただきます。貴藩が進めている電信網の整備計画について、我々イギリスも協力いたしたく……」

 モリソンは感心しつつも、本題に戻ることにした。

「なるほど。具体的にはどのような事でしょうか」

 モリソンは、ここぞとばかりに説明を始めた。

「はい。我が国は、世界中で電信網の敷設に成功した実績があります。特に海底ケーブルの技術では、他国の追随を許しません。大村藩の進歩的な取り組みに、我々の最新技術を提供することで、日本国内はもちろん、将来的には大陸や世界とつながる高速で信頼性の高い通信網を構築できると考えております」

 お里は興味深そうに聞いていたが、すぐに質問を投げかけた。

「興味深いご提案ですね。ですが、いくつか確認させてください。確かドーバー海峡のケーブルが開通したのは9年前で、現在も運用中というのは知っています。ただ、大西洋横断ケーブルについて質問があります」

 と断ってさらに続ける。

「2年前の工事では断線し、去年もう1回失敗して3回目で成功したが、2か月ほどで使えなくなったと聞いています。これについてはいかがお考えですか? ありがたいお申し出ですが、短距離とはいえケーブルを開通させるのです。やるならば信頼性の高い、耐久性の高い工事にしたいと考えています。この件についてのご見解を伺えますか?」

 モリソンは言葉に詰まった。お里の知識の深さと鋭い質問に驚いたのだ。

 実際には1859年の段階で、信号不通の原因を解明すべくイギリスでは特別委員会が設置されていた。しかし8月の今、ここにいるモリソンが知るわけないのである。
 
「Mrs.太田和、ご指摘ありがとうございます。確かに、大西洋横断ケーブルについては現在も課題を抱えています。失敗の詳細な原因については、私もまだ正確な情報を得ていません」

 モリソンは正直に状況を説明しつつ、前向きな姿勢を示そうと努めた。

「しかし、我が国の技術者たちは懸命に問題の解決に取り組んでいます。この失敗から多くを学び、次の挑戦に活かすことができると確信しています」

 ふふふふふ、とお里は笑った後に付け加える。

「ではなおさらです。そのような状況の技術を供与されても困ります」

「ドーバー海峡のケーブルが9年間問題なく稼働していることからもわかるように、短距離の海底ケーブル敷設については十分な実績があります。大村藩が計画されている距離であれば、我々の現在の技術で十分に対応可能だと考えています」

 モリソンは慎重に言葉を選びながら続けた。
 
「さらに、我々は常に技術改良を行っています。例えば、ケーブルの絶縁性能の向上や、海底での保護方法の改善など、様々な面で進歩を遂げています」

 ふう、とお里はため息をついた。

「問題はそこではありません。もちろん、技術的な面は大事でしょう。しかしあなたはこう言った」




『はい。我が国は、世界中で電信網の敷設に成功した実績があります。特に海底ケーブルの技術では他国の追随を許しません。大村藩の進歩的な取り組みに、我々の最新技術を提供することで、日本国内はもちろん、将来的には大陸や世界とつながる高速で信頼性の高い通信網を構築できると考えております』




「聞かれなければ言わなくても良い。確かにそうかもしれませんが、相手が知らないだろうと思って、なかばだますような物言いはいかがかと。ビジネスは信用第一でございます」

 お里はニコニコして笑顔を崩さずに言うが、モリソンは背筋が凍るような思いをした。

 コンコンコン……。

「どうぞ」

「ようお里! 例の件だけど……あれ? お客様? Sorry for interrupting.(お話中すみません)大丈夫?」

「ええ大丈夫よ。構いませんね? こちらは我が家中の頭脳、Mr.山中です」

「え、ああ。はあ……」

「Nice to meet you. My name is Shinnosuke Yamanaka.(初めまして。山中信之介と申します)」

「で、わかったの?」

「ああ、まずは原因なんだけど……」

 ※原因
 ・ケーブルが海中でコンデンサーとして機能し、信号の減衰を引き起こす。
 
 ・高電圧使用による絶縁材(ガタパーチャ)の劣化。
 
 ・ケーブルの製造や敷設時の品質管理の不足。

 ※改善策
 ・信号減衰対策……ケーブルの導体断面積を増加させ、絶縁層を厚くする。また、一定間隔で信号増幅器を設置。

 ・絶縁材劣化対策……高品質なガタパーチャの使用と製造過程での酸素との接触を最小限に抑える事。ケーブルの外装強化による物理的損傷の防止。

 ・品質管理の徹底……製造過程での厳格な品質チェックと敷設時のケーブル張力管理の徹底。

「おおよそこんな感じだ。次郎が戻ってきたら説明しようと思う」

「と、言う事ですMr.モリソン。技術供与についてはオランダとも協議中ですので、この件は申し訳ありませんが、ご縁がなかったという事で」




 モリソンは失意のうちに領事館に帰る他なかった。




 ■安政六年十二月二十八日(1860/1/20) 箱館 奉行所

 川路聖謨としあきらは次郎と直接の面識はなかった。

 しかし対米交渉や対露交渉において同席した奉行から、その人となりや能力については聞いていたのだ。そして次郎が、奉行の彼等が現場の実権を事実上委ねるほどの人物だと言う事を、見抜いていた。

「太田和殿、これはしかし、壮観でございますな」

 大村から江戸、そしてここ箱館まで乗ってきた大村海軍の軍艦『清鷹』の艦上で聖謨は言った。湾内には樺太での部隊配置が終わった祥ほう・天鳳・烈鳳(各1,000t)・ずい雲・祥雲(各800t)・至善(400t)が停泊している。

 瑞鳳と飛龍は変わらず樺太に配備のままである。

 年の瀬の二十八日。何もなければ正月を迎える準備をしているであろう時期に、2人は極寒の地で交渉に臨むのだ。




 ■在日ロシア領事館

「日本国全権、川路聖謨にございます」

「現地部隊代表、太田和次郎左衛門にございます」

「在日ロシア領事のヨシフ・ゴシケーヴィチです。おかけください」

 3人の自己紹介が終わった時点で、現状確認と賠償問題、今後の対応の協議が始まった。傍らには樺太部隊の隊長の立石昭三郎と、松前藩家老の松前勘解由がいた。

 まず川路聖謨が口を開く。

「はじめに、事の詳しきについて確かめとうござる。我らの得た報せによると、ロシア兵が我が国の管理する建物に無断で立ち入り、人民を退かせ、銃による打ち合いに発展したとのことですが、これは真でしょうか?」 

「はい、そのような事態が発生したことは事実です。しかし、我々の調査によると、これは単なる誤解から生じた不幸な事態でした。ロシア兵は悪意を持って施設に立ち入ったわけではありません」

 ゴシケーヴィチは慎重に答えたが、それを聞いた昭三郎が前に出て、厳しい表情で発言した。

「失礼いたします。領事、誤解とおっしゃいましたが、我々の管理する施設に武装した兵士が立ち入ってきたのです。これを悪意がないとは如何いかなる事でござろうか」

 ゴシケーヴィチは昭三郎の言葉に思わず体を固くする。

「立石殿、確かに武装した兵士が立ち入るというのは適切ではありませんでした。この点については心からおび申し上げます」

 次郎は腕を組み、ゴシケーヴィチの弁明を聞きながら眉をひそめる。

「領事殿、仮に誤解があったとしても、武装して他国の施設に立ち入ることは外交上大きな問題です。なぜ事前に確認をしなかったのですか」

 次郎の発言の後、勘解由は長年の懸念を口にした。

「我が家中は長年にわたってロシアとの関わりに苦慮してきました。今回の事は、両国の権と務めが明らかでないことに起因するのではないでしょうか」

 場の緊張が高まる中、川路聖謨は両手を広げ、冷静な声で話を進めた。

「……では、この事様を重く受け止め、再び起こらぬようつぶさなる策を定める要ありかと存ずる。領事、貴国としては如何にお考えですか」

「お待ちください!」

 昭三郎が割って入った。

「再び起こらぬよう致す事も重しにございましょう。ロシアの誤解も、百歩譲ってそうだといたしましょう。然りながら! 然りながら! いわれのない由にて追われ、傷を負ったそれがしの部下は如何いかがいたすのですか! まさか何もなしですますおつもりではございますまい? 喧嘩けんか両成敗など、喧嘩でもなんでもござらぬ。これで終わるならば、傍若無人もはなはだしい!」

 昭三郎の激しい言葉に、会場の空気が一変した。ゴシケーヴィチの顔が引きつり、言葉を探している。

「太田和殿……」

 聖謨が次郎に確認するように聞いた。
 
「控えよ昭三郎。お主の気持ちもようわかる。然れどこれは国を動かす重し会談なのだ、落ち着け。心を鎮めるのだ。お主の気持ちはようわかっておる。それにまさか、報復としてロシア軍を襲うなど、然様な事は考えておらぬだろうな」

「それは……然様な考えはございませぬ」

 昭三郎は次郎の制止によって落ち着きを取り戻したようだ。

 次郎は昭三郎の様子を確認すると、ゴシケーヴィチに向き直った。

「領事、我らの部下が負傷したことは事実です。この点については、如何にお考えでしょうか」

 ゴシケーヴィチは姿勢を正し、慎重に言葉を選びながら答える。

「皆様、まず深くお詫び申し上げます。負傷者の方々には適切な治療と補償を提供いたします。具体的な内容については、両国の専門家を交えて協議いたしたく存じます」

 川路聖謨はうなずき、話を進める。

「それでは、負傷者への手当てと補償を含めた今後の仕組みについて、しかと話し合うといたしましょう。まずは事の次第をつぶさに調べることが肝要かと存じまする」

「某からは……」

「それについては……」




 議論は数日に及んだ。




「御家老様、何かお考えになっていらっしゃるのではございませぬか」

「わかるか、昭三郎よ」

「はは。御家老様は転んでもただでは起きぬ人かと存じます」

「ははははは。言いよるわ。まあ、当たらずとも遠からずだな。今回の件については、十分な補償がなされれば、オレにとっては問題ない。問題はこれからだ」

 そう言って次郎は続ける。

「例によって今回の戦でロシア側もオレ達の武装を知ったであろう。そしてオレは連隊規模で軍を派遣した。しかも新式の金属薬莢やっきょうだ。名付けて拾九式小銃だが、これで武装した兵を、将来的には一個旅団ないし一個師団規模で送ろうと思う。入植者を増やしつつ、武装を強め、樺太の支配者は日本だと言う事をロシアに認めさせるのだ」

「……相変わらず、恐ろしいことを考えるお人にございますね」

「褒め言葉として受け取っておく」




 次回 第244話 (仮)『莫大ばくだいな艦隊維持費と二個艦隊計画。樺太派兵増強と万延元年』

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