第370話 フロギストン説と酸素説 留学生の熾烈な眠気との戦い

西国の動乱、まだ止まぬ

 永禄十二年 十一月 肥前 純アルメイダ大学 化学部 講義室
 
「さて、今日は原点である化学とはなんぞや? という事について考えていきたいと思います」

 そう語るのは、純アルメイダ大学の化学部教授の宇田川松庵である。

 第二期遣欧留学生としてヨーロッパの大学で留学して帰ってきた。秀政や秋政の後輩にあたる。しかし年齢は二十四歳である。

 教室には三十人ほどの学生が学んでいるが、その中の九名は織田家の留学生だ。

 堀秀政は工学・土木工学、毛屋武久は物理学・化学、佃十成は農学に松井康之は語学・教育学部。

 真木島明光は医学部で平手汎秀は薬学部、これは健康維持や薬の開発のためである。

 可児才蔵は建築学で建築物や城の設計、改築のため。川尻秀長は天文学、奥田直政は生物学である。

 信長の命により各学部に生徒が割り振りされたが、化学は基礎科学となるため、数学や物理と同じように共同講義を受ける。

「化学は本来ポルトガル語でキーミカ、ラテン語でケーミア、英語でケミストリーといいます。つまり化学とは、私が作った言葉です」

 聞いたことのない言葉に全員が首をかしげる。

「想像がしづらいかも知れませんが、化ける事を学ぶ、と書きます」

 そう言って黒板に『化学』と書き出す。

「そもそもの物の成り立ちや形、物と物との交わりを深く探る学問の事です。物の起源やどのような性質を持っておるのか、そして物と物との接触により、どのように姿を変えるのかを考える学問でもあります」 

 例えば、と松庵は言い、手に小さい薪を持って言う。

「これは裏山で伐り取った普通の薪です。切りたての時は緑色で瑞々しかったが、今は乾き果てています。なぜか? 理由を考えてみる、これが化学です」 

 全員の顔が? である。なぜそんな事を学ぶのか?

「私の講義を受けた人は全員が同じ顔をします」

 松庵は笑顔で語る。

「この化学を学んで知り得た事や発見した事は、より良い薬の調合や、新たな武器や道具の開発、さらには毎日の生活を豊かにする技を生み出す礎となる」

 徐々に学生の顔が明るくなっていく。

「また、見たことのない物やその理を発見する。そして我々の日々の暮らしにどのように利するか、という道を拓くのも、この化学の力によるのです」

 生徒のざわつきが収まり、松庵は自分に注目が集まるのを待つ。

「そこで今日は、化学の基本である観察・推論・仮説・検証・考察に基づいて、なぜ物が燃えるのか? について考えてみましょう」

 生徒全員が松庵の顔に注目し、固唾をのむ。

「古来、今よりはるか二千年もの昔、ギリシャという国々では、この世には四つの元となる物があると考えられていました。この世界の物は、火・空気・水・土の4つの元素から構成されるとする考え方です」

 空気、という概念を身振り手振りで教えようとする。

「しかし近年、パラケラススをはじめとした多くの学者が異を唱えています。私の場合は、さきほど話した『なぜ物が燃えるのか?』について別の考えを打ち出しました」

 筆を使って紙に書き写しているものもいれば、鉛筆で書いているものもいる。制約はないが、学内では鉛筆や実用化されたゴムは安価で提供されているのだ。

 松庵は黒板に、燃焼する木材や薪の絵を描きながら、その特徴を説明し始める。

「物が燃焼する時、私はその物質からフロギストン、つまり燃素とでもいいますか」

 化学の概念が未知のものであるから、言葉自体も今までの日本になかったものだ。

「これはギリシャ語で燃えるという意味ですが、その物質が放出されると考えています。このフロギストンは燃焼の元凶とされるもので、物質が燃え盛るのはこのフロギストンが放出されているからです」

「先生、そのフロギストンは目に見えるものなのですか?」

「いい質問ですね。フロギストンは目には見えませんが、物質が燃焼する際の熱や光、煙を通して、その存在を感じ取ることができます」

「それでは、石や鉄のような物もフロギストンを出すのでしょうか?」

「石や鉄も熱を持つことでフロギストンを放出します。しかし、それは木材や薪とは違った燃焼の仕方となります」

「農作物や土の中にもフロギストンは存在するのですか?」

「はい、存在しています。適切な環境で燃焼することで放出されます」。

 宇田川松庵は、小さな木片を目の前で燃やして灰になる事を示して、生徒たちにフロギストンの放出を実感させる。

「燃焼の際に発生する熱や光、そして煙。これらはすべて、フロギストンが放出されている証として考えます」

 学生からの質問に次々に答えていく松庵であったが、一人の質問が場の空気を変えた。

「松庵先生、燃えることでフロギストンが出ていくのであれば、軽くなるのでしょうか? フロギストンが物質から抜け出るということは、軽くなるということではございませんか?」

 堀秀政だ。

「君の考えるとおり、もしフロギストンが実際に物質から放出されると考えるならば、物の重さが軽くなるはずです。これが化学の面白いところ。現在、私の説は仮説の段階で、検証が必要なのです」

 優秀な学生は講師を喜ばせるのだろうか。

「実は私もそれを疑問に思いました。そこで私は様々な物を燃やし、その前後での重さを測ったのです」

 わざとなのだろうか、松庵は間をとって話す。

「その結果、鉄片を燃やして重さを測った時、増えていたのです。わたしは考えました。そしてもう一つの推論・仮説を立てました。それが空基論です」。

 おおお、というざわめきが起こる。

「これであれば、さきほどの重くなるという問題を解決できます。すなわち、この空気中には空気の基になる物があり、燃焼によって物質と結びつき重くなる」

「先生、それではさきほどの仮説と逆の矛盾が起こります。薪を燃やすと灰になって軽くなるのはなぜですか?」

「その通り、わたしが提唱するこの二つは相反するものなれど、これからの研究によって真実が解明されると考えています。これを解明するのが、化学なのです」

 講師と生徒達との質疑応答はつづく。

 かくん、かくん、かくん……。がったんっ。

 居眠りしながら船をこいでいた才蔵が起きる。

「おい、大丈夫か?」

「いや、問題ないが、これは困った。さっぱりと理解できぬ……何とも奇妙な言葉ばかりじゃ。分かるか?」

「お、おう……なんとなくな」

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