永禄七年 四月 佐賀龍造寺城 龍造寺隆信
「直茂よ、やっと落ちたの」
「はは」
肥前中野城に籠もっていた少弐政興を降したのだ。
「少弐め。滅んだのだから大人しくしておればいいものを、大友なんぞに担がれおって」
少弐政興は大友氏によって擁立された。
しかし前年の永禄六年(1563年)に馬場・有馬・波多・大村・多久・西郷の連合軍が龍造寺隆信に敗北したのだ。
「さて、ゆっくり休んでいたいものだが……。そうもいかぬな。次はどうするか。去年の戦いで、大番狂わせがあったのう。隆信が死んで、波多、志佐が生き返ったわい。おかげでやりやすくなった。波多を攻めるか平井を攻めるか。はたまた後藤か」
「千葉城、晴気城の千葉胤連はお味方とはいえ、一足飛びに後藤は難しゅうございます。波多・伊万里・志佐は不可侵を結んでおりますゆえ、須古城の平井を攻めるのが上策かと。落とした後、南の有馬・大村に備えつつ、西の波多を攻略いたしましょう」
「そうだな。直茂がそう言うなら間違いなかろう。そうだ、例の、隆信を討った小佐々の、何と言ったかのう?」
「弾正大弼純正ですな。まだ元服して三年の十五のようです」
「十五だと! わははは! 十五であの平戸を討ったのか? やりおるのう」
「そうですね。横瀬浦だけではなく、平戸も開放して南蛮や明、朝鮮と盛んに貿易をやっております。もっとも明は海禁ですから密貿易になりますね」
「なに、銭ならわしも負けんぞ。八田の湊と今津、相応津の湊がある。そのおかげで家族の仇である本家を倒し、主家を滅ぼす事が出来たのだからな」
守護配下の、そのまた分家の水ヶ江龍造寺家がここまで躍進できたのは、水運を押さえ、その経済力を背景にした強力な軍事力であった。
「はい。水運を制する者は銭を制す。まこと、そのとおりにございます。しかしながら彼の者、南蛮貿易もさることながら、石けんや鉛筆なる不思議な物を売り、また角力灘・五島灘にて鯨をとっております。その豊富な資金力で軍を整え、南蛮式の船や大砲をそろえている様にございます」
「ほお、その方にしては随分と高く見ているではないか。常に冷静に彼我の分析をするのに、今回は甘いのう」
「いえ、決して甘くはございません。今は領地を接しておりませぬゆえ、近々の敵にはなり得ませんが、いずれ雌雄を決する時がくるやもしれませぬ。神代勝利に鉄砲矢玉を支援していたのもあやつにございます」
「ううむ。そうだったのか。神代勝利は一筋縄では行かぬが、あの鉄砲の量はどうもおかしいと思うておった」
「ただ、空閑の手の者を送っておりますれば、しばらくは心配ないでしょう」
「なるほどな。では、その日が来るのを楽しみにしておこう」
隆信は、がはははは! と高らかに笑い、直茂はふっ、と微笑むだけであった。
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