天保八年 二月十日(1837/3/16) 太田和村 次郎
灰の原価計算をするのを忘れていたけど、木炭から灰汁を作るとしても@0.7文だったので一文と計算した。
灰の原価、油の原価、そして製造の人件費を入れて@30文だ。
問題は海藻と貝殻の枯渇による石灰岩採掘の採掘量と、それに必要な人件費だけど、輸送費と合わせて@100文以内に収まれば問題ない。
領内の鍾乳洞付近で採掘をする予定だが、採掘量が不明なので、どのくらいの人件費がかかるかがわからない。
それに第一、中浦村は太田和家の所領じゃない。
勝手に採掘などできないし、今いろいろと説明するのも面倒だ。よくよく考えれば分かることなのに、何を見落としていたんだろうか。
……石灰を買うとするならば、上州石灰100俵につき銀164匁。
つまり石灰6tで銀164匁だから17,876文になる。灰と同じ量の石灰が必要だと仮定して、もちろん材料によって変わるんだろうが、そう仮定する。
そうすると、300個の石けんで1.46kgの灰=石灰が必要で、6tは6,000kgだから、0.00024333……。
17,876文をかけても、4.3498……。
300で割ると@0.014499……文。
石灰の価格が10倍にあがっても影響はない。
念のため運賃も計算しておこう。
千石船の菱垣廻船や樽廻船を例にすれば、積載量は750駄(1,500樽)で1駄(150kg)×750で112,500kgが輸送可能になる。
運賃は10駄につき銀61匁だから75をかけて銀4,575匁で、レートの誤差を加味して471,225文必要だ。大坂~東京間の運賃だから、ざっくり東北からも運ぶとして3倍にする。
そうすると1,413,675文が必要だ。
300個の石けんに1.46kgの石灰が必要だから、112,500kg÷1.46kg=96,982となって、2,900万個の石けんが製造可能となる。
いや、これ計算間違いじゃないだろうか?
運賃が10倍に上がって、陸路の運賃でさらに倍を上乗せしたとしても、単価は1文しか上がらない。
……いや、この世ではどんな事が起こるか分からない。
まったく売れないかもしれないのだ。濡れ手で粟のぼろ儲けの予感しかしないが、気を引き締めて、かかるとしよう。
「おーい! なんばしよっとか(何をしてるんだ)! 早う貝殻ば拾えさ」
考え事をしていた俺に、信之介の言葉が刺さる。
「ああ、ごめん。考え事しよった」
油はそれぞれ必要な分を買うとして、灰はかき集め、薪や炭を燃やして作った。そしてまずは海藻と貝殻集めだ。
まだ、この前殿に贈った9個の試供品と、藩内での試験販売の段階なんだ。焦らずにゆっくりやればいい。
朝から俺と信之介、一之進とお里、そして助三郎と角兵衛と十兵衛。
7人で、太田和村北端にある琵琶石の鼻の浜から、順番に南に下りながら貝を拾っている。岩場が多く砂浜が少ない。オカヒジキはもう少し南の砂浜だ。
「されど、石けんもなかなか、固まりやすいものとそうでないもの、全部を固まらせるのは、難しいな」
信之介がつぶやく。
「そうだな、難しいな。ん? ……全部?」
俺は基本的な事を、しかも製造工程や原材料に関わる重要な点を、見落としていることに気づいた。
「そうやん(そうだ)! そうやっか(そうじゃねえか)! くそボケやな俺。なんば考えとったっちゃろか(何を考えていたんだろうか)!」
「いかがした? 信之介」
「お里! 石けんは、別に固まってなくてもいいよな? 体を洗ったり衣を洗うのに、シャンプーにボディソープ、液体洗剤だってある。ていうか、固形石けんの方が見かけるのすくなくないか?」
「う、うん。そうやね。あたしも石けんなんて、言われてみれば普段あんまり使わない(使わなかった)」
10年前に神隠しにあったという庄屋の娘に転生し、この時代で10年生きているお里だ。結婚が嫌で、雪浦川に身を投げたところを救われた。
「よし! これで選択肢が増えた。製造工程に幅がでるし、用途によって使い分ければいいな!」
石けん、油脂を鹸化することで臭いがなくなる魚油の事を考えていたが、原価は菜種ベースで考えていたのだ。
無理して魚油でつくらなくてもいいし、信之介が前に言ってた酸性なんとかのやり方でもいい。
そうだ、油にしたって、おそらく領内で全てを賄うことは出来ないだろう。
大規模に生産販売するとなると、全国からの輸入(厳密には国内なので移入だが、面倒なので輸入)となる。
さっきと同じ値段で菜種を運ぶとして、1駄150kgで166.6ℓ。750駄で12,495ℓ。24.4ℓで石けん300個だから、153,627個できる。
さっきの1,413,675文を個数で割って@9.2文だ。
それにしても100文にはならない。諸々の諸経費をいれても50文にもならない。
よし、これでいける。
■十五日 玖島城 次郎
「いかがじゃ? 滞りなく作れそうか?」
殿の言葉に俺は答える。
「は、まったくなんの憂いもなく製造能います。ただ問題は、使われた方の評判にございます。江戸の奥方様はいかがにございましたか?」
「それがな……」
心配しつつ、殿の顔を見る。
「大評判じゃ! 実はあの後すぐに江戸に飛脚で送ったのだが、まだ返事は届いておらぬ。来月か再来月であろう。然れど、母上やその他の侍女頭、城代の鷲之助の奥などに評判が良いのじゃ!」
「それは、それはようございました! して、月に四百五十文でも……続けてお買い求めいただけそうでしょうか?」
そこが、一番の問題なんだ。いいのは分かっている。要は買い続けるか? という事が一番重要なんだよね。
「うむ、それは問題はない。わしも奥がこのように喜んでいるのを見るのは嬉しき事であるし、鷲之助も銭は出すであろう?」
「はは、仰せの通りにございます」
同席していた城代の冨永鷲之助が同意する。
「そうよの……その代わり、まとめて買うか続けて買う故、今少し安くはならぬのか?」
やっぱり?
「はは。もとより日ノ本全てで売ろうと考えておりました故、殿とその御一門方には三百五十文、ご家来衆のみなさま、大村藩内で買うのなら四百文でよろしいかと」
「おお、そうかそうか」
「まずは藩内に流通させまする。しかるのちに、商人は利に聡いですから、佐賀や島原平戸など、隣藩より噂を聞きつけて参るでしょう。そこで大量に買う商人にも、領内と同じ値で売るのです。さすれば大村の商人が他の藩で売らずとも、利益となりまする」
「そうであったか。うむ、大儀である」
「殿、こたびは今少し違う石けんを献上いたします」
俺はそう言って、二合徳利に入った液体石けん(洗剤ですが、特別な場合を除き石けんで統一します)と、一升枡に入った新作物を取りだして献上したのだ。
「石けんは体を洗うだけに非ず、髪はもとより衣も洗えます。毎日身を清め、香しい香りをまとわば、気分もよくなりお役目もはかどるに違いませぬ」
「おお、さようか」
殿も鷲之助様の満面の笑みだ。
信之介が話すと専門的になって難しいので、俺がかいつまんで話しながら、今後の製造や販売計画を煮詰めていった。
次回 第12話 『城内の石けん反対派と純顕の改革』
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